この日記はHeart Beat Base女将の宗像由美子が2023年4月に書き始めましたが、移住以前の顛末を書くために2020年まで遡りました。文中に登場する宗像、望月、野崎はいずれも私です。60年以上生きているとそういうこともあるとご理解下さい。
この日記はHeart Beat Base女将の宗像由美子が2023年4月に書き始めましたが、移住以前の顛末を書くために2020年まで遡りました。文中に登場する宗像、望月、野崎はいずれも私です。60年以上生きているとそういうこともあるとご理解下さい。
「望月さんが一番好きなことをやって下さい。そうすれば必ず道は開けます。」浪江在住の畠山さんがキッパリと言ってくれたのは、仙台回りで埼玉に帰る私を送ってくれた原ノ町駅での別れの時、移住はこの言葉に押され本格的に動き出した。
畠山さん宅への訪問は2回目になる。1回目はその年の春、咲き始めた桜に季節外れの雪が積もった寒い日だった。当時私はさいたま市で教師として働く傍ら、郡山の住宅会社が発行する広報誌を手伝っていた。初めての訪問は新築の畠山家の取材である。
浪江町は津波と原発事故との二重被災の影響で避難した方々が戻らず、6校あった小学校は僅か1校になってしまった。
震災当時、畠山さん一家はご主人の勤務地がある茨城県に住んでいたが、ご主人は故郷の浪江に帰ることを強く望み家族はそれを受け入れたのだ。それだけでなく地域の人々が集まる場所を作りたいと、彼女は自宅の一部をカフェにした。
最初の訪問から4か月後、彼女の気さくな人柄にもう一度会いたくなり、私は再びお邪魔した。そしてカフェの運営や浪江での生活について質問攻めにした。強い意志を持って歩んでいるのに「私、ボーっとしているから特に何をしたではなく、いつの間にかそうなったの。」と淡々と語る穏やかな表情に魅せられた。いいなぁ!憧れるなぁ!
その畠山さんが「好きなことをやれば道は必ず開かれる」と言ってくれた。言葉は平凡でも、彼女の口から発せられた言葉は説得力があった。
私の好きな事?これからの道を開いてくれるものは何?音楽を教えること、文章を書くこと、料理…好きな事は幾つかあるが、これ!と即答できるものがない。今までは「好き」より「出来ること」を優先にしていた。これから自分に問うてみよう。それが新しい人生の出発になるに違いない。来て良かった!!
私は大学卒業後ずっと教員だった。50代に事情があって退職し故郷の福島県石川郡に帰った。住宅会社と縁が出来たのはその時である。しかし、骨を埋めるつもりだった福島での生活は長く続かず、1年半後に再びさいたま市で働き始めた。
60歳を目前にしての出戻りである。その後、あっという間に定年となり、再任用で働き続けることを余儀なくされた。収入はそれまでの半分に減ったものの「何とかなるさ…」と呑気だった私が、己の老後に初めて不安を持ったのはその1年後である。
その頃、私は離婚で家を出たため60過ぎても賃貸アパート暮らしだった。堅実とはおよそ無縁な生活が長く、「姉御!」と呼ばれると調子に乗って徒党を組み出かけていた。それでもプライドだけは一人前「ヒトとしての誇りを持って生きる!」「死ぬ時はどうせ一人!」「貧しくても精神は自由に!」などと強がっていたが、2018年3月に異変が起きた。
合唱の指導中勢い余って指揮台から転落、膝関節を骨折し3か月の療養生活となり失職したのだ。歩けるようになれば復職できると知っていたが、無給をきっかけに「老後」「年金」「孤独死」などの言葉が頭を離れなくなった。
「いつかは働けなくなる、働けなくなったら年金だけで家賃を払いながら暮らしていけるのか?待てよ、そもそも年金はいくら貰えるのか?」とこんな調子である。調べてみたら思ったよりずっと少ないではないか!「その額で暮らすには何を節約すればいいんだろう?」「美容室の回数は減らすとしてシャンプーの質は落としたくない。」「フワフワのトイレットペーパーも使えないの?」「年に一度の京都旅行はどうなる?」など、40代にするだろう心配を60過ぎでしている。
「家も家族も貯金もないのに都会に住み続けていいのか?」ようやく現実が見えてきた。不安を打ち払うには仕事に集中するのが一番だが、何せ松葉杖の身、時間だけはあったので考え続け「家賃が安い田舎へ移住する。元気なうちに音楽や教師のキャリアを生かした仕事をする。出来れば、昔取得した調理師免許も生かして。」という答えを出した。今思えば、その頃は「出来ること」優先の考えに支配されていたと思う。
私の移住地を探す旅が始まった。新聞やTVはもちろん、特集が組まれた雑誌を買い漁り、誰かから「○○はいいところらしい!」と聞けば飛びついた。私のアンテナは「移住」に敏感に反応し、長期休みの度それらの地に足を運んだ。
地元埼玉では東松山、ときがわ、秩父、近県では栃木や茨城、遠くは大分、熊本、高知、岩手、小豆島に行った。どこに行っても暮らしやすそうだった。
特に心を惹かれたのは大分県豊後高田市。高齢の移住者が多く、納豆屋を営むご夫婦は60歳で横浜から移り住み7年目という。御婦人曰く「気候も温暖、魚が美味しい。地元の人はみんなやさしいよ。お年寄りを集めてコーラスやればみんな喜ぶよ。早く来るといい!」と薦められ、調子に乗った私は「はい、すぐ来ます!」なんて答え、大分空港までの車窓から見える穏やかな豊後水道の景色に涙が浮かんだ。
その涙は「ああ、ここが探していた安住の地に違いない。ここで私は親切な人々に囲まれて穏やかに暮らし、死んでいくのだ」。という根拠のない安堵感、たわいない妄想だったのに…。
栃木県足利市もよかった。歴史が残る古い静かな街に中古マンションを買い、キッチンをリフォームし料理教室を開く。近所の人に好評で、教室は笑いに溢れている…。そんな物語を作って自分に酔っていた。
そして家に帰ると友人にメール、「すごい出会いがあったの。近いうちに又行くつもり、今度は不動産屋も回ってみる!」と息巻いた。
しかし、実際にはどの地にも再訪していない。その理由は仕事が忙しかったからか?否、すぐに仕事を辞める踏ん切りも、その先にある孤独や死と向き合う勇気もなかったのだ。何の根拠もない妄想に涙し満足していた私。移住先を見つける旅は、それまでの気楽な女の一人旅と何ら変わらない現実逃避の旅にしか過ぎなかった。
畠山さんに会ってそれをハッキリ知った。地に着いた彼女の生き方を目の前にして私は恥じた。だからこそ、「好きなことをやって下さい!」の言葉が胸に強く響いたのだ。
出会いのきっかけはいつも唐突だ。8月のある夜、普段は殆ど開かないFacebookを暇に任せてチェックしていたところ、見覚えのある名前を見つけた。メッセージは「お、野崎由美子!」と一言だけ。相手は小中学校の同級生宗像直樹クン、私達は福島県石川郡平田村出身、野崎は当時の姓である。因みに私はこの姓をある事情から嫌い、離婚後も戻していない。
「忌まわしい名前で呼ばないで!」と返信。「ほう!何かあったな?ビール吞みながら話そうよ」「…そのうちね」と応え、それで終わると思っていた。
私は生まれた地も実家も好きではない。同級生との交流も殆どなかった。宗像クンを忘れてはいないが、今更会って故郷の話などしたくない。私の身には離婚をはじめ色々なことがあった。彼もそうらしい。が、そんなことを説明するのも聞くのも面倒だ。電話番号も教え合っていないし放っておくつもりだった。
なのに、2日後メールが入った。「福島から桃が届いた。お裾分けするからビールどう?」。「面倒くさいなぁ!宅急便で送ってくれればいいのに」とは書けず「コロナ休校のあおりで今は忙しい。」「丁度いいよ。桃はまだ固いから冷蔵庫で寝かせておくサ。来月会おうゼ」。福島の美味しい桃、大きくて甘い桃、食べたい!そして私は殿方の「サ」と「ゼ」弱いのだ。思わず「そうだね」と答えてしまった。何てこった!相手のペースにはまってしまった。
10月の土曜、千葉県柏市で宗像クンと会う。最後に会ったのは彼の結婚式だから、35年は経っている。年賀状もいつの間にか途絶えていた。その間2人とも独りになり、私は埼玉県大宮に、彼は千葉県我孫子に住んでいる。35年の時間は、宗像クンにも私にも残酷な容姿の変化をもたらしたが、話し始めると一気にタイムスリップした。声が変わっていない、悪戯っぽい目の表情も…。
桃を貰ったらすぐに口実を作って帰ろうとしていたのに、思い出話に花が咲いた。俗に言う「同郷の良さ」とはこのことらしい。仕事のこと、結婚と離婚のあらまし、息子のことなどを一通り報告し合った後「これからどうするの?」と宗像クンが聞いてきた。
「ここ数年移住先を探してあちこち歩いてきた。今は浪江町近辺を考えているんだ。」「それは被災地だから?」「震災後、故郷に何もできなかったことへの後ろめたさはある。でも浪江を選んだのは、素敵な生き方をしている知り合いが出来たので、その近くに住めたらと思って。」「移住して何かやるの?」質問が突っ込んできた。「私がライフワークとして取り組んできた〈音楽遊び〉を地域の子どもたちに広めたいと思っているんだ。あとは調理師免許を生かして〈カフェ〉ができたらいいな」。
私は畠山さんとの出会いから、好きな事、好きだからやりたい事についてずっと考えてきた。だから、割とハッキリ話せたと思う。それを聞く宗像クンの目が一層キラキラし、こう言った。「オレにも一枚噛ませて!」「えっ!……??」
いくら幼馴染とは言え、私達は40年近く会っていなかった。その間、離婚があった。肉親との別離も経験した。人間関係の挫折、仕事での大きな曲がり角もあり、二人とも決して順風満帆でない。お互い中学時代は「いい子」だったかも知れないが、今もそのままなんてあり得ない。私は相当生意気でズルいよ。一枚噛んで痛い目にあったらどうする?
後日、彼はその理由を説明してくれた。「60過ぎて自分の老後を考えないわけはないよね。想像できるのは地元のスーパーでシルバーさんとして働くことくらい。足腰が弱くなったら今のマンションで暮らすのは厳しい、田舎の実家もなくなった。その先を考えても仕方がないから、敢えて考えないようにしていたよ。でも由美ちゃんのビジョンを聞いて何か協力したくなった。話している時の由美ちゃんの目がキラキラして、中学の時と変わっていなかった!」
おお!幼馴染よ。君の目も輝いていたよ!私達は意外といい子のまま年を重ねたようだ。いや、40年前より遥かにいい子になっていた!!桃を貰ったらさっさと帰ろうなんてとんでもなかった。こうして再会の夜は味わい深く過ぎていった。
移住地探しという名目の気楽な旅行をしてきた私が、住むかも知れない家を見るために小高に来た。
体力も知力も衰えるばかり、60を過ぎた現役の終わりは目の前に迫っている。現実をちゃんと見ようと決心し、手始めに浪江や小高の空き家バンクを検索して見つけた、一軒だけあった賃貸住宅。
そこは駅から2分、5LDKの平屋、家賃は何と10万円!今より高い家賃を払う移住なんてあり得ない。即却下…だが「待てよ…」と思い直した。現地の誰かと知り合いになるべきではないか。例えば役所の移住担当者、不動産屋さん、地主さん等に顔を繋いでおけば、いい物件があった時に情報をくれるのではないか。とにかく行ってみよう!
南相馬市役所に電話すると、仲介の方と直接話すよう指示され連絡先を教わった。直ぐに電話した。Nさんとの濃いお付き合いはここから始まった。
電話から2週間後、私は仙台回りで原ノ町駅に降りた。駅ではNさんが待っていてくれた。自己紹介の結果同い年と分かった。更に彼は春日部市(埼玉県)の大学出身、私が住んでいる大宮は学生時代の遊び場だったから隅々まで知っている。
私達は短時間で意気投合し、会話が盛り上がった。さらに驚愕はこの一言「小高の家は見る価値ないですよ。止めませんか?」。これには、借りる気がない私も流石に慌てた。「でも折角来たので見せて下さい!」「ウーン、気が乗らないけど、ま、行きますか」。
私は経験上、不動産業の方とは案内した物件を「いいですよ!ぜひ!!」と薦めるものと思っていた。見る価値がないと言い切るN氏に俄然興味が沸いた。これは期待通り、いや、それ以上の展開になるに違いない。ワクワク、ドキドキ、Heart Beatした。
小高の貸家の見学は1分で終わった。建物は、震災復興の作業員が長期滞在した民家だった。複数の作業員が寝られるよう、薄い板で間地切られたまま放置されていた。N氏は「ほらね。」と嬉しそうな顔をして、近くのカフェに私を誘った。大宮から新幹線と特急を乗り継いできた私を、空振りのまま帰すには忍びなかったのだろう。私も情報が欲しかったので喜んで応じた。
N氏は、空き家バンクの仲介は行政から依頼でやっているため、不本意な物件が多いと断った上で、「望月さんはこっちで何をやりたいの?」と質問してきた。
こんな不動産屋さんは初めてだ。「どんな家がいいですか?」ではなく「何をやりたいか?」と聞くものか?普通は聞かないだろう。この不思議な小父様に益々興味津々、先日の宗像クンに話した内容に加え、賃貸で住みたい旨を伝えた。そして何か情報があったら教えてほしいとお願いした。
落ち着いたら連絡しようと思っていたが、予想に反し2日後「近いうち来られますか?」と電話があった。直感で「何かが動いている!」と感じ、週末に行く約束をした。
夏真っ盛りの浪江訪問から4か月、原町は既に冬の様相だった。N氏は知り合いの不動産に連れていき、そこが管理する賃貸物件の説明を隣でニコニコと聞いている。その後の内見にも付いてくる。何故N氏の物件でないものを見るのか分からない、しかも、どこにでもあるような普通の物件である。これを見るために私は遠方まで来たのか?直感はハズレだったか!
夕闇が迫った頃、内見はようやく終わり、N氏が囁いた。「最後に見て貰いたい家があるので案内します。」「家?部屋じゃないの?」。私にはこの小父様の考えが分からない。聞きたくても寒さで口が動かない。
車は市街地を離れ、山に向かう坂を登り民家の庭に停まった。その家は紅葉が終わった山々に背を向け、夕陽を浴び佇んでいた。落ち着きのある静かな雰囲気の平屋を見た瞬間、私は「ここに住む!」と確信した。N氏は言った。「ここなら望月さんがやりたいことが出来るんじゃないかな」。その口調は自信に溢れ、今までとはまるで別人のよう、夕陽が後光に見えた。
後になってN氏は「そこらの不動産屋は手持ちの物件を紹介するだけでしょう、私はその人の生き方に合った物件を探して案内するちょっと変わった仲介屋」とのたもうた。「じゃあ賃貸の内見はどんな意味があるの?」その質問には「賃貸はどこを見ても同じ、原町だから特別家賃が安くない。そう望月さんが納得しないと始まらないからねェ」。ムムム・・確かにそうだった。お主出来るのォ。
この日からN氏を(〇〇キの)ターさんと呼ぶことにする。(もちろん本人の前では口にしていない、イマノトコロ。)
しかし、問題は値段だ。私の貯金で買えるのかどうか。果たして売値の額は私にとってギリギリ、築40年の家なのでリフォームが必要になるが、その費用はとても捻出できそうにない。
「ゆっくり考えていいよ。ここに住みたいんでしょう。必ず希望が叶うよ」。畠山さんもターさんも言葉が上手い。この地の人はみんなそうなのか?それとも福島弁がそう感じさせるのか?とにかく返事は保留、最終の特急で帰った。
翌日からは山積みになった二学期末の仕事に没頭した。成績を付けたり、通知票を書いている時に、夕焼けを浴びたあの家がボウっと浮かんだ。「私はあの家で好きでやりたいことをする」。それは今までのような妄想ではなく、地に足がついた希望だった。希望は、多忙な時期を上機嫌で乗り越えるパワーになっていたらしい。
「先生、何かご機嫌だねえ、声が優しいよ」なんて生徒に言われてしまう。洋服を買いに行けば、仲良しのベテラン店員に「何かいいことがあった?表情がいつもと違うよ。もしかして老後の心配が軽くなった?」と訊かれた。資金の問題がある限り軽くはならない。しかし希望がある。妄想ではない希望、そこには前進する勇気もついて来る。
「望月さんが一番好きなことをやって下さい。そうすれば必ず道は開けます。」浪江在住の畠山さんがキッパリと言ってくれたのは、仙台回りで埼玉に帰る私を送ってくれた原ノ町駅での別れの時、移住はこの言葉に押され本格的に動き出した。
畠山さん宅への訪問は2回目になる。1回目はその年の春、咲き始めた桜に季節外れの雪が積もった寒い日だった。当時私はさいたま市で教師として働く傍ら、郡山の住宅会社が発行する広報誌を手伝っていた。初めての訪問は新築の畠山家の取材である。
浪江町は津波と原発事故との二重被災の影響で避難した方々が戻らず、6校あった小学校は僅か1校になってしまった。
震災当時、畠山さん一家はご主人の勤務地がある茨城県に住んでいたが、ご主人は故郷の浪江に帰ることを強く望み家族はそれを受け入れたのだ。それだけでなく地域の人々が集まる場所を作りたいと、彼女は自宅の一部をカフェにした。
最初の訪問から4か月後、彼女の気さくな人柄にもう一度会いたくなり、私は再びお邪魔した。そしてカフェの運営や浪江での生活について質問攻めにした。強い意志を持って歩んでいるのに「私、ボーっとしているから特に何をしたではなく、いつの間にかそうなったの。」と淡々と語る穏やかな表情に魅せられた。いいなぁ!憧れるなぁ!
その畠山さんが「好きなことをやれば道は必ず開かれる」と言ってくれた。言葉は平凡でも、彼女の口から発せられた言葉は説得力があった。
私の好きな事?これからの道を開いてくれるものは何?音楽を教えること、文章を書くこと、料理…好きな事は幾つかあるが、これ!と即答できるものがない。今までは「好き」より「出来ること」を優先にしていた。これから自分に問うてみよう。それが新しい人生の出発になるに違いない。来て良かった!!
私は大学卒業後ずっと教員だった。50代に事情があって退職し故郷の福島県石川郡に帰った。住宅会社と縁が出来たのはその時である。しかし、骨を埋めるつもりだった福島での生活は長く続かず、1年半後に再びさいたま市で働き始めた。
60歳を目前にしての出戻りである。その後、あっという間に定年となり、再任用で働き続けることを余儀なくされた。収入はそれまでの半分に減ったものの「何とかなるさ…」と呑気だった私が、己の老後に初めて不安を持ったのはその1年後である。
その頃、私は離婚で家を出たため60過ぎても賃貸アパート暮らしだった。堅実とはおよそ無縁な生活が長く、「姉御!」と呼ばれると調子に乗って徒党を組み出かけていた。それでもプライドだけは一人前「ヒトとしての誇りを持って生きる!」「死ぬ時はどうせ一人!」「貧しくても精神は自由に!」などと強がっていたが、2018年3月に異変が起きた。
合唱の指導中勢い余って指揮台から転落、膝関節を骨折し3か月の療養生活となり失職したのだ。歩けるようになれば復職できると知っていたが、無給をきっかけに「老後」「年金」「孤独死」などの言葉が頭を離れなくなった。
「いつかは働けなくなる、働けなくなったら年金だけで家賃を払いながら暮らしていけるのか?待てよ、そもそも年金はいくら貰えるのか?」とこんな調子である。調べてみたら思ったよりずっと少ないではないか!「その額で暮らすには何を節約すればいいんだろう?」「美容室の回数は減らすとしてシャンプーの質は落としたくない。」「フワフワのトイレットペーパーも使えないの?」「年に一度の京都旅行はどうなる?」など、40代にするだろう心配を60過ぎでしている。
「家も家族も貯金もないのに都会に住み続けていいのか?」ようやく現実が見えてきた。不安を打ち払うには仕事に集中するのが一番だが、何せ松葉杖の身、時間だけはあったので考え続け「家賃が安い田舎へ移住する。元気なうちに音楽や教師のキャリアを生かした仕事をする。出来れば、昔取得した調理師免許も生かして。」という答えを出した。今思えば、その頃は「出来ること」優先の考えに支配されていたと思う。
私の移住地を探す旅が始まった。新聞やTVはもちろん、特集が組まれた雑誌を買い漁り、誰かから「○○はいいところらしい!」と聞けば飛びついた。私のアンテナは「移住」に敏感に反応し、長期休みの度それらの地に足を運んだ。
地元埼玉では東松山、ときがわ、秩父、近県では栃木や茨城、遠くは大分、熊本、高知、岩手、小豆島に行った。どこに行っても暮らしやすそうだった。
特に心を惹かれたのは大分県豊後高田市。高齢の移住者が多く、納豆屋を営むご夫婦は60歳で横浜から移り住み7年目という。御婦人曰く「気候も温暖、魚が美味しい。地元の人はみんなやさしいよ。お年寄りを集めてコーラスやればみんな喜ぶよ。早く来るといい!」と薦められ、調子に乗った私は「はい、すぐ来ます!」なんて答え、大分空港までの車窓から見える穏やかな豊後水道の景色に涙が浮かんだ。
その涙は「ああ、ここが探していた安住の地に違いない。ここで私は親切な人々に囲まれて穏やかに暮らし、死んでいくのだ」。という根拠のない安堵感、たわいない妄想だったのに…。
栃木県足利市もよかった。歴史が残る古い静かな街に中古マンションを買い、キッチンをリフォームし料理教室を開く。近所の人に好評で、教室は笑いに溢れている…。そんな物語を作って自分に酔っていた。
そして家に帰ると友人にメール、「すごい出会いがあったの。近いうちに又行くつもり、今度は不動産屋も回ってみる!」と息巻いた。
しかし、実際にはどの地にも再訪していない。その理由は仕事が忙しかったからか?否、すぐに仕事を辞める踏ん切りも、その先にある孤独や死と向き合う勇気もなかったのだ。何の根拠もない妄想に涙し満足していた私。移住先を見つける旅は、それまでの気楽な女の一人旅と何ら変わらない現実逃避の旅にしか過ぎなかった。
畠山さんに会ってそれをハッキリ知った。地に着いた彼女の生き方を目の前にして私は恥じた。だからこそ、「好きなことをやって下さい!」の言葉が胸に強く響いたのだ。
出会いのきっかけはいつも唐突だ。8月のある夜、普段は殆ど開かないFacebookを暇に任せてチェックしていたところ、見覚えのある名前を見つけた。メッセージは「お、野崎由美子!」と一言だけ。相手は小中学校の同級生宗像直樹クン、私達は福島県石川郡平田村出身、野崎は当時の姓である。因みに私はこの姓をある事情から嫌い、離婚後も戻していない。
「忌まわしい名前で呼ばないで!」と返信。「ほう!何かあったな?ビール吞みながら話そうよ」「…そのうちね」と応え、それで終わると思っていた。
私は生まれた地も実家も好きではない。同級生との交流も殆どなかった。宗像クンを忘れてはいないが、今更会って故郷の話などしたくない。私の身には離婚をはじめ色々なことがあった。彼もそうらしい。が、そんなことを説明するのも聞くのも面倒だ。電話番号も教え合っていないし放っておくつもりだった。
なのに、2日後メールが入った。「福島から桃が届いた。お裾分けするからビールどう?」。「面倒くさいなぁ!宅急便で送ってくれればいいのに」とは書けず「コロナ休校のあおりで今は忙しい。」「丁度いいよ。桃はまだ固いから冷蔵庫で寝かせておくサ。来月会おうゼ」。福島の美味しい桃、大きくて甘い桃、食べたい!そして私は殿方の「サ」と「ゼ」弱いのだ。思わず「そうだね」と答えてしまった。何てこった!相手のペースにはまってしまった。
10月の土曜、千葉県柏市で宗像クンと会う。最後に会ったのは彼の結婚式だから、35年は経っている。年賀状もいつの間にか途絶えていた。その間2人とも独りになり、私は埼玉県大宮に、彼は千葉県我孫子に住んでいる。35年の時間は、宗像クンにも私にも残酷な容姿の変化をもたらしたが、話し始めると一気にタイムスリップした。声が変わっていない、悪戯っぽい目の表情も…。
桃を貰ったらすぐに口実を作って帰ろうとしていたのに、思い出話に花が咲いた。俗に言う「同郷の良さ」とはこのことらしい。仕事のこと、結婚と離婚のあらまし、息子のことなどを一通り報告し合った後「これからどうするの?」と宗像クンが聞いてきた。
「ここ数年移住先を探してあちこち歩いてきた。今は浪江町近辺を考えているんだ。」「それは被災地だから?」「震災後、故郷に何もできなかったことへの後ろめたさはある。でも浪江を選んだのは、素敵な生き方をしている知り合いが出来たので、その近くに住めたらと思って。」「移住して何かやるの?」質問が突っ込んできた。「私がライフワークとして取り組んできた〈音楽遊び〉を地域の子どもたちに広めたいと思っているんだ。あとは調理師免許を生かして〈カフェ〉ができたらいいな」。
私は畠山さんとの出会いから、好きな事、好きだからやりたい事についてずっと考えてきた。だから、割とハッキリ話せたと思う。それを聞く宗像クンの目が一層キラキラし、こう言った。「オレにも一枚噛ませて!」「えっ!……??」
いくら幼馴染とは言え、私達は40年近く会っていなかった。その間、離婚があった。肉親との別離も経験した。人間関係の挫折、仕事での大きな曲がり角もあり、二人とも決して順風満帆でない。お互い中学時代は「いい子」だったかも知れないが、今もそのままなんてあり得ない。私は相当生意気でズルいよ。一枚噛んで痛い目にあったらどうする?
後日、彼はその理由を説明してくれた。「60過ぎて自分の老後を考えないわけはないよね。想像できるのは地元のスーパーでシルバーさんとして働くことくらい。足腰が弱くなったら今のマンションで暮らすのは厳しい、田舎の実家もなくなった。その先を考えても仕方がないから、敢えて考えないようにしていたよ。でも由美ちゃんのビジョンを聞いて何か協力したくなった。話している時の由美ちゃんの目がキラキラして、中学の時と変わっていなかった!」
おお!幼馴染よ。君の目も輝いていたよ!私達は意外といい子のまま年を重ねたようだ。いや、40年前より遥かにいい子になっていた!!桃を貰ったらさっさと帰ろうなんてとんでもなかった。こうして再会の夜は味わい深く過ぎていった。
移住地探しという名目の気楽な旅行をしてきた私が、住むかも知れない家を見るために小高に来た。
体力も知力も衰えるばかり、60を過ぎた現役の終わりは目の前に迫っている。現実をちゃんと見ようと決心し、手始めに浪江や小高の空き家バンクを検索して見つけた、一軒だけあった賃貸住宅。
そこは駅から2分、5LDKの平屋、家賃は何と10万円!今より高い家賃を払う移住なんてあり得ない。即却下…だが「待てよ…」と思い直した。現地の誰かと知り合いになるべきではないか。例えば役所の移住担当者、不動産屋さん、地主さん等に顔を繋いでおけば、いい物件があった時に情報をくれるのではないか。とにかく行ってみよう!
南相馬市役所に電話すると、仲介の方と直接話すよう指示され連絡先を教わった。直ぐに電話した。Nさんとの濃いお付き合いはここから始まった。
電話から2週間後、私は仙台回りで原ノ町駅に降りた。駅ではNさんが待っていてくれた。自己紹介の結果同い年と分かった。更に彼は春日部市(埼玉県)の大学出身、私が住んでいる大宮は学生時代の遊び場だったから隅々まで知っている。
私達は短時間で意気投合し、会話が盛り上がった。さらに驚愕はこの一言「小高の家は見る価値ないですよ。止めませんか?」。これには、借りる気がない私も流石に慌てた。「でも折角来たので見せて下さい!」「ウーン、気が乗らないけど、ま、行きますか」。
私は経験上、不動産業の方とは案内した物件を「いいですよ!ぜひ!!」と薦めるものと思っていた。見る価値がないと言い切るN氏に俄然興味が沸いた。これは期待通り、いや、それ以上の展開になるに違いない。ワクワク、ドキドキ、Heart Beatした。
小高の貸家の見学は1分で終わった。建物は、震災復興の作業員が長期滞在した民家だった。複数の作業員が寝られるよう、薄い板で間地切られたまま放置されていた。N氏は「ほらね。」と嬉しそうな顔をして、近くのカフェに私を誘った。大宮から新幹線と特急を乗り継いできた私を、空振りのまま帰すには忍びなかったのだろう。私も情報が欲しかったので喜んで応じた。
N氏は、空き家バンクの仲介は行政から依頼でやっているため、不本意な物件が多いと断った上で、「望月さんはこっちで何をやりたいの?」と質問してきた。
こんな不動産屋さんは初めてだ。「どんな家がいいですか?」ではなく「何をやりたいか?」と聞くものか?普通は聞かないだろう。この不思議な小父様に益々興味津々、先日の宗像クンに話した内容に加え、賃貸で住みたい旨を伝えた。そして何か情報があったら教えてほしいとお願いした。
落ち着いたら連絡しようと思っていたが、予想に反し2日後「近いうち来られますか?」と電話があった。直感で「何かが動いている!」と感じ、週末に行く約束をした。
夏真っ盛りの浪江訪問から4か月、原町は既に冬の様相だった。N氏は知り合いの不動産に連れていき、そこが管理する賃貸物件の説明を隣でニコニコと聞いている。その後の内見にも付いてくる。何故N氏の物件でないものを見るのか分からない、しかも、どこにでもあるような普通の物件である。これを見るために私は遠方まで来たのか?直感はハズレだったか!
夕闇が迫った頃、内見はようやく終わり、N氏が囁いた。「最後に見て貰いたい家があるので案内します。」「家?部屋じゃないの?」。私にはこの小父様の考えが分からない。聞きたくても寒さで口が動かない。
車は市街地を離れ、山に向かう坂を登り民家の庭に停まった。その家は紅葉が終わった山々に背を向け、夕陽を浴び佇んでいた。落ち着きのある静かな雰囲気の平屋を見た瞬間、私は「ここに住む!」と確信した。N氏は言った。「ここなら望月さんがやりたいことが出来るんじゃないかな」。その口調は自信に溢れ、今までとはまるで別人のよう、夕陽が後光に見えた。
後になってN氏は「そこらの不動産屋は手持ちの物件を紹介するだけでしょう、私はその人の生き方に合った物件を探して案内するちょっと変わった仲介屋」とのたもうた。「じゃあ賃貸の内見はどんな意味があるの?」その質問には「賃貸はどこを見ても同じ、原町だから特別家賃が安くない。そう望月さんが納得しないと始まらないからねェ」。ムムム・・確かにそうだった。お主出来るのォ。
この日からN氏を(〇〇キの)ターさんと呼ぶことにする。(もちろん本人の前では口にしていない、イマノトコロ。)
しかし、問題は値段だ。私の貯金で買えるのかどうか。果たして売値の額は私にとってギリギリ、築40年の家なのでリフォームが必要になるが、その費用はとても捻出できそうにない。
「ゆっくり考えていいよ。ここに住みたいんでしょう。必ず希望が叶うよ」。畠山さんもターさんも言葉が上手い。この地の人はみんなそうなのか?それとも福島弁がそう感じさせるのか?とにかく返事は保留、最終の特急で帰った。
翌日からは山積みになった二学期末の仕事に没頭した。成績を付けたり、通知票を書いている時に、夕焼けを浴びたあの家がボウっと浮かんだ。「私はあの家で好きでやりたいことをする」。それは今までのような妄想ではなく、地に足がついた希望だった。希望は、多忙な時期を上機嫌で乗り越えるパワーになっていたらしい。
「先生、何かご機嫌だねえ、声が優しいよ」なんて生徒に言われてしまう。洋服を買いに行けば、仲良しのベテラン店員に「何かいいことがあった?表情がいつもと違うよ。もしかして老後の心配が軽くなった?」と訊かれた。資金の問題がある限り軽くはならない。しかし希望がある。妄想ではない希望、そこには前進する勇気もついて来る。
桃の再会後、宗像クンと頻繁に会うようになり、半年後に籍を入れた。早すぎると躊躇する私に彼はこう言った。「早すぎないよ、だって小中と合わせたら9年間も一緒だったでしょう」。ガーン!中学時代のキミはこんな気の利いたセリフは言えなかったよね(当たり前サ!)。どうした宗像クン?(それが人生の重さというものサ!)カッコは宗像クンの呟き。
気の利のいた言葉は更に続く。「一緒にいると不思議と落ち着くんだよね」。実は私もそうなのよ。育った所は小さな村、お互いの家族や家業はもちろん、先生に怒られたこと、部活のこと、成績のこと、初恋の相手は誰か、どんな字を書いていたかさえ知っている。今更恰好つけても仕方がない。これが意外と心地がいいのよ。
こうして入籍となった。合わせて130歳の大年増カップルの誕生である。私は5月の連休に宗像クンが住む我孫子に引っ越したが、それまでの数か月は金曜日に彼のマンションに行き、月曜の朝1時間半かけて大宮に戻った。
結果的にそれが良かった。2人とも独り暮らしが長かったので、疲れないとは言うもの、一人の時間がないのは困る。見たいテレビ番組も食べたいものも違う時がある。仕事が忙しく職場に遅くまで残りたい、疲れて口を聞きたくない、それを説明するのは面倒な時もある。
月曜日の朝、我孫子のマンションを出る時は寂しいが、仕事を終え、自分のアパートに帰ると不思議とホッとする。見慣れた本棚、使い慣れた食器、照明の色、部屋の匂いでここが自分の居場所だと安心する。実家に帰ったような安心感である。ウイークデイは、慣れない長距離通勤から解放され、金曜日まで機嫌よく仕事ができるのも嬉しい。
宗像クンは月1度か2度、土曜日にゴルフに行き、夕方迎えにきてくれる。その週末は私も友人との食事や呑み会に出かけられる、ショッピングを楽しめる。心ゆくまでのグータラもオッケーだ。彼と一緒も楽しいが、一人も楽しい。
こんな風に65歳同士は自然に任せ、ゆっくりと同居までの時間を楽しんだ。
さて移住の話だ。
桃の再会後、宗像クンの希望で私達は浪江の畠山さんを訪ねた。その後、籍を入れて畠山さんに報告すると「そうなると思ってたわ。だって2人は兄弟みたいに自然な感じだったから。私、母親みたいに嬉しい。」と喜んでくれた。
そして原町の家を見るため二人がターさんに会ったのはクリスマスの頃。靴下ごしに伝わる床の冷気がひどく冷たかった。宗像クンは寒さに弱く、長距離の運転で疲れていたのか不機嫌に見えた。だが、ターさんと別れる時彼は言った。「今住んでいるマンションを売れば買えます。すぐにというわけにはいきませんが、それまで待って貰えますか」。
この言葉に私は少し慌てた。家を見てもいない宗像クンと、支払いやリフォームの経費について話せていない。夫婦になるとは言え、家の資金繰りのために宗像クンを巻き込んでしまっていいのか、甘えていいのか、彼の財産を使っていいのかと躊躇するのは当然だった。
帰途の車中、その思いを伝えると「あの家で始めようとしている事は由美ちゃんだけの夢じゃないんだよ。俺の夢でもあるんだ」。と言った。Facebookで偶然再会し「一枚噛ませる」関係になるはずだった私達。人生とは何て芳醇なんだろう。
この日から移住に向かい私達の船は大きく舵を切ることになった。
しかし実際は、この後暫く原町を訪れていない。入籍、引っ越しと慌ただしく、私は慣れない(?)結婚生活と長距離通勤に振り回されていた。仕事を辞めればよかったのだろうが、2人ともあと1年だけ働くと決めた。それは自分たちなりの仕事へのけじめだった。それをターさんに伝えると「働いた方がいいですよ、長い間就いてきた職業とはそういうものです。」と実に寛大である。その上、誓約書も手付金も要求しなかった。
それにしても、歳をとってからの共稼ぎと遠距離通勤はキツかった。1年限定だから持ったと思う。片道1時間半の通勤で読書が出来たのは最初の2週間、電車ではひたすら寝た。それでも寝足りないのか、それまで居眠りする同僚に冷たい視線を投げかけていたのに、会議になると必ず舟を漕ぐようになった。テスト期間や成績処理の時期は家に仕事を持ち帰ることもあった。土日は食材の買い物と食事の作り置きで忙しく、原町の家のことをゆっくり話す余裕がなかった。
一方で1年間の期限付き遠距離通勤により、退職する肚が決まった。最後の1年は音楽を教えることに真摯に向き合うと決心し、授業も生徒も愛しんだ。不幸なことに新型コロナの勢いがピークとなり感染流行の波が次々と襲ってきた。音楽の授業は大きな声で歌うことが禁じられ、吹奏楽部は悪いことをしているようにひっそりと練習していた。でも私は諦めなかった。音楽の授業だからこそ出来ることは何か考えた結果、小さな声で歌ってもきれいに歌えることが分かった。又、授業以外の時間で今まで以上に生徒と関わるように努力した。教師最後の年をコロナのせいにして惰性で流すことは耐えられなかった。そのため上司である校長や教頭によく注意され、時にはぶつかった。実に濃い充実の毎日だった。
そして3月30日、42年間の教師生活を卒業、31日には宗像クンも無事退職した。
その1か月前、浜通りを大きな地震が襲い、我孫子市も揺れた。この時の地震が移住に影響するとは夢にも思わなかった。
1日に撮った写真がある。桜の下で二人とも実に晴れ晴れとした顔だ。この日私達は秩父に一泊旅行した。ここには同僚だった斎藤クンという若い美術の先生がパートナーと新居を構えている。
彼に会いがてら、温泉に浸かりのんびりする日の写真だから当たり前。どこに行っても桜が満開。予定や時間を気にしない旅行、何なら宿泊を延長してもいい。65歳、お気楽退職記念旅行だった。
今日はターさん立ち合いのもと、売り主のAさんと会い、正式な契約をする。そのため9時に我孫子を出発した。高速から見える山々が北上するにつれ美しく変化する。まだ残っている山桜がいい。茨城を過ぎたあたりで遠くに見える海がキラキラと美しい。新天地への期待で胸が高鳴る。輝け!私達の未来。65歳故時間的には短いけれどその分たくさん煌めいてほしい。
Aさんは穏やかで素敵なご婦人だった。この家を大切にしようと思った。契約後に家の周囲をゆっくり散策した。そしてあまりの美しさにビックリした。それもそのはず、この家は県立東ヶ丘公園の入り口にあったのだ。そのことに今気付くなんて…。益々この家が好きになり「ここで良かったね。ここが大好き!」と宗像クンに強い口調で言ったのには訳があった。
この数日前、私は実兄に原町への移住を反対された。兄曰く「原町は新幹線が停まらないから不便」「年をとったら住むにはマンションがいい」「移住は綺麗ごとではない。所詮よそ者。馴染むには時間がかかる。まして高齢者は」。と一方に捲し立てられてへこんでいた。
確かに一理あると思う。兄にしてみれば、心配の種の妹が再婚すると聞き喜んだものの、原町で暮らすことを心配してのことだろう。
そのため今回の訪問は少し気持ちが沈んでいた。しかし、緑繫る樹木と木漏れ日、沼や小川で聞こえる大地の音、湿地のなまめいた空気、賑やかに交わされる鳥の声、遠くに見える海の輝きが一掃してくれた。この公園を毎日歩くことができる、そう考えただけで不安が吹き飛んだ。馴染むのはゆっくりでいいのだ。だって一人ではないのだから。
それを宗像クンに伝える。「そうだよ、もうサジは投げられたのだからね」。
夫よ、それはサジではなくサイ(賽)だ」
南相馬市は移住者のリフォームに補助金を出してくれるとターさんが教えてくれ、申請することにした。年齢制限があったらどうしようと懸念したが、それはなかった。申請用紙の書き方に幾つか疑問点があり合同庁舎内を訪れた。担当は新卒のSさん。彼にも解らないことだらけのようで、その度に調べたり、上司に聞いたりとちょっと頼りない。
頑張れ!フレッシュマン。みんなそうやって大きくなるんだ。相談者がこんな年寄りでごめんね。と心の中で励ます。この日は日帰り。
関東は異常な暑さ、原町は涼しいと期待したがやっぱり暑い。エアコンがないため、汗を流しながらの打ち合わせである。マスクが恨めしい。
秋には住めるかな、なんて考えていたものの甘かった。2月の地震で多忙になり、すぐは着手できないこと、ロシアによるウクライナ侵攻の影響を受け、資材が入りにくいと説明された。「始まれば二ヵ月くらいで完成するのですが、資材の目途が全くつかなくて」と申し訳なさそうだ。
退職から二ヵ月が過ぎ、呑気な毎日サンデーに正直飽きてきたが、世情には逆らえない。ならば引っ越しがスムーズにいくよう、マンションに溢れているガラクタや不要な家具の整理をしよう。我孫子や柏で気になっていた店に食べに行こう。最近始めたばかりのゴルフも練習して上手くなれば、宗像クンとコースにも行ける。能天気な私は変わっていない。
私達の資金がギリギリであることを知らないターさんは「移住の後にゆっくり我孫子のマンションを売ればいいよ」と言った。しかし、南相馬市からの補助金は申請が通ったとしても、リフォーム終了の検査を経た後、支給は更にず~っと後になるらしい。
と言うことは、リフォームが終わった後もマンションが売れなかったとしたら…。リフォーム代払えないよ。どうする?マズいじゃないか!世の中の当たり前を知らない自分に呆れた。
マンションの仲介は某大手の不動産業社、担当になったのは元ラガーマンで筋肉隆々の若者だ。彼に連絡し、早く売るよう尻を叩いた。もちろん値は下げないで。
因みに私はラガーマンに勝手に「ハリー」と愛称をつけていた。3月まで教えていた張江クンという生徒に体つきも顔も声もまるで同じなので、愛称を使わせてもらったのだ。
夕ご飯を餌に我が家に誘われたハリーは、パエリアとアジフライとサラダをモリモリと平らげ、他の仕事よりも優先して売ると約束してくれた。
不思議なことに、それから内見の方が次々と訪れるようになり、それまでは部屋を適当に片づけて対応していた私達も、部屋が少しでも快適に見えるように、ゴチャゴチャしていた物を隠すなど、内見の度に大わらわ。私は不動産の売却をした経験がないため、正直ウンザリ。
春日部市教育委員会から電話があり、春日部中学校で臨時的に働くことになった。実は4月にその話はあった。しかし、移住のことがあったので、産休に入る先生の代員が見つからず、原町に移住していなかったら引き受けます。と保留にしていた事が現実になってしまった。都市部の教員不足は深刻で、特に音楽と美術は顕著らしい。安易に約束しなければよかったと思う反面、リフォームもマンション売却も滞っていた。何よりも給料を頂けるのは有難い。
宗像クンが、家事はもちろん移住の準備も「俺に任せろ!」と力強く約束してくれた。もう戻ることはないと思っていた中学校、しかも長年働いたさいたま市ではなく春日部市で。これはちょっとした冒険だ。あと二ヵ月で私は66歳になる。
相馬野馬追を生まれて初めて見た。こんな行事が脈々と続いているなんて本当に素敵な地だ。この地を移住先にして良かった。おまけに家から会場までは歩いて行ける距離だ。二日目「小高火の祭り」の篝火は幻想的で素晴らしい。地域の人々の繋がりが温かい。来年から毎年観ることができるのだ。友人を沢山呼ぼう!
夏休みが明けた8月末授業が始まった。五ヵ月振りの音楽の授業、職員室の空気、生徒と食べる給食、清掃時のやりとり全てが楽しかった。通勤距離は前に比べ20分程短くなっただけだが、クレヨンしんちゃんの街春日部はのんびりしており、生徒達も先生方も穏やかである。家事を宗像クンが引き受けてくれ、以前ほど睡魔に襲われなくなった。
朝夕の空気が爽やかになってきた。来月の合唱祭に向けて歌声が響く。学校との肌がピッタリ合って心地よい。悪くないなぁ…。あと1年ならこのまま働けるかも…。
なんて自分に都合のよいことが続くわけはない。リフォームが始まったと連絡があった数日後、ハリーから「売れそうです!」との知らせを受け慌てた。学校を辞めなくてはいけない、しかしそんな無責任なことはできない。
しかし、購入を希望している方がすぐには買えないらしいと判明。銀行との資金繰りの相談がまとまる迄時間が掛かりそうと聞き安心したのも束の間、次の買い手が現れた。こちらはすぐに購入を希望していたが、12月まで住みたいと思い切って伝えたらすんなりと受け入れてくれた。有難うございます。何という幸せ。これで二 学期一杯働けることになった。冬のボーナスも頂けるらしい。有難い。
翌日、校長と学年主任、音楽担当の二人にそれを伝えた。四人とも我儘でお騒がせの私に理解を示して下さった。感謝しかない。あと一ヵ月に迫った合唱祭に今ある限りの力を注ごう、その後は丁寧に成績処理をして辞する。それがご理解へのせめてもの恩返しだ。思いがけず復職した五ヵ月間。教師最後は12月23日、終業式と決めた。二 学期の途中で辞めることにならず本当に良かった。
以前の同僚で今は退職したYさんと久しぶりにランチをし、喜多方にお姉さん夫婦が住まわれていると聞いた。しかも、お義兄さんはドローンを撮影する資格を持ち、時々その映像がTVで使われているらしい。帰宅してから早速YouTubeを開いてみた。
凄い!!!あまりの美しさに圧倒される。原町の家と周辺の緑、海を撮影して貰えたらどんなにいいだろう。
リフォームの進行を見るため原町に来た。想像していたより進んでいない。剥がした床や取り払った壁が剝き出しになり資材が溢れ、足の踏み場もない。このペースで12月に終わるのか心配だが、任せるしかない。玄関脇の柿がなっている。渋柿だそうだ。お隣の遠藤さんが道路に出ていたので挨拶していると、散歩をしていた裏の北崎さんも声を掛けてくれた。自己紹介をしながら、近い将来私達はここに住むのだと実感した。
まず家のネーミングを決めよう!ここは地域のコミュニティとなる家、みんなから愛される家にふさわしい名前がほしい。
原町の家にはどんな名前がいいかずっと考えてきた。ある日、我孫子で利用している産直野菜販売「わくわく広場」で買い物中、宗像クンが「あの家をワクワク、ドキドキする場所にしたいんだよね。」と何気なく言った。
実はその前に2人は「ワクワク」「ドキドキ」を候補として考えていた。2人とも好きだったNHK朝の連ドラ「ちむどんどん」からの発想だった。できるなら「ちむどんどん」をそのまま使いたかったがそうもiいかない。しかし「ちむどんどん」が離れない。そしてそれに替わる言葉選びに走っていた。
この時、宗像クンの呟きによって発想の根っこを正された私。思わず「おお!」と叫んでしまった。そもそも宗像クンは文字の読み書きに弱い。中学時代もそうだった。つい最近まで延暦寺をえんれきじと呼んでいた。しかし妙に鋭い感性がある。
それが私のつまずきを正したのだ。しかし同級生ゆえの妙なプライドがあり「そうだね、ありがとう」とは言いたくない。
「悪くはないよ。(あの家に集まる人々がワクワクするようにという意味ね。目指しているのは私も一緒だよ。)けれどそのままでは使えないね。カッコは心の呟き」と言ってしまった。しかも教師の口調で。それが宗像クンには「却下!」と聞こえたらしく、その話題はそれで終わった。
ところで「ワクワク・ドキドキ」は外国語でどういうのか気になって調べてみる。そもそも「ワクワク・ドキドキ」は日本語のオノマトペ、擬音語や擬態語だから辞書にもネットにも直接当てはまる単語は見当たらない。フランス語とドイツ語とスペイン語と中国語で無理に当てはめた「これかな~」の単語は発音が難しくどうもしっくりこないのだ。
じゃあ英語では?「Beating Heart」。いいじゃん!いいよ!!凄くいい!!!嬉しくて私のハートがドキドキと鼓動する。これなら分かりやすい。場所とか家を表す単語も欲しい。所ジョージの世田谷ベース、カッコいいじゃん。言い易さも考えて語順はHeart Beat Base、略してHBB。果たして宗像クンも大賛成。ありがとうキミのおかげだよ。
後日、体のメンテナンスをお願いしている鍼灸師さんに話ししたら「不整脈みたいですね」と言われガッカリ。キミは相変わらず毒舌ね…そんなキミともあと少しでお別れよ。
リフォームの補助金を戴けることになった。申請してから半年、ターさんやリフォーム業者さんに助けてもらったが、一番大変だったのは宗像クン。役所との煩雑なやり取りを一人でやってくれた。電話とメールだけでなく、日帰りで現地に行ったこともある。本当にありがとう。それから、役所のSさんお世話になりました。4月のオロオロ状態を知っているので、その成長ぶりが嬉しい。上から目線の私ですみません。
念願のドローン撮影が決まり今日は撮影日。はるばる喜多方から機材を積み、Yさんが来てくれた。早速打ち合わせをして家の周辺を撮影。家の中も撮りたかったがリフォーム中で断念、明日はサーフィンの聖地北泉海岸で日の出を撮影するという。私達も眠い目をこすりながら撮影に同行させて貰った。
実はここに至るまで、宗像クンと話し合いを重ねた。費用が想像以上だったからだ。
空撮は雄大で迫力のある画面になるが、HPなどに使うのであればスマホ動画でもいいのでは、というのが宗像クンの主張。確かにここにきてリフォームの追加工事が生じ、出費が重なっている。来月は引っ越しもある。新調すべき家具や電化製品もある。それでも私はHBBの記念として空撮の映像を残したかった。宗像クンに生活費の倹約を誓い、願いは聞き入れられた。
翌朝の撮影は最高のコンディション。サーファーはもちろん、海岸を走る馬のベストショットには虹が架かり七色のアーチが加わった。あまりにも偶然が重なりご褒美かと思った。褒美を頂けるのは誰だ?少なくとも私ではなさそうだ。
※思いがけない復職のおかげで、この五ヵ月間は余りにも幸せ、どうしても書き残したいことで溢れている。特に生徒が毎日見せてくれた様々な表情や言葉は何としても書きたい。この章は移住日記の別冊として今夏にアップする予定です。改めてお知らせしますので是非お読みください。
リフォームが終わったとの連絡を受け、引き渡しのため原町へ。原町行きもこれが最後になると感慨深い。完成まで一番大変だったのは宗像クン。何せ遠方なので、頻繁に行き来できず、時には日帰りで現地に行ったこともある。ありがとう。
いくつかの手直しと追加工事をお願いしても、月末には引っ越せることになった。2年前、ターさんに案内された時の冷たい床の感触が蘇り、ここに至るまでの様々なことが走馬灯のように思い出された。
12月中旬リフォームが終了し12月20日にマンションを引き払った。トラックが出発した後、宗像クン一人で原町へ。私は終業式まで勤務するため大宮で二 泊、春日部で一泊。23日にはマンションの本契約のため我孫子に戻った宗像クンが学校まで迎えに来てくれた。
水戸で一泊し翌24日昼過ぎ、新居となる南相馬市原町区牛来の家Heart Beat Base(以後HBB)に到着した。まずは散歩だ。東ヶ丘公園第2駐車場まで5分の坂道を登りきって振り返ると海が見える。この日の海は特別くっきりと輝き、大きなタンカーがゆっくり進んで行った。宜しくね、HBBと原町!仲良くしようね。
スーパーで食料を買い夕飯を作る。リフォームしたキッチンは明るく広々として使いやすい。それにしても寒い。足元がスースーする。キッチンにはまだエアコンがない。マンションで使っていたファンヒーター1台では不十分だ。トイレと洗面所は更に冷える。明日は大きなストーブを買いにダイユー・エイトに行こう。なんて話しながら、一日目の夜は過ぎた。エアコンで温めたはずの寝室はそれほど暖まらず、夜中に何度も目を覚ました。
↑すっかり片付いた我孫子のマンションのリビング
↑リフォーム完成した原町区牛来のキッチン
埼玉県熊谷市の中学校で元同僚の斎藤クンが美術を教えている。私達は親子ほどの年の差があったにも関わらず仲がよかった(と思う)。職員室での席が隣り合い、美術と音楽の教師は学校に一人だけ、授業数も同じなので何かと一緒にやる機会が多かった。そうでなくても私達は気が合ったはずだ(と思う)。それは自分の教科に対しての誇りがあったこと、中学生特有の訳の分からなさと捉えどころのなさが結構好きだったことなど考え方の根っこが共通していたからだ(と強く思う)。その当時斎藤クンは一人暮らしで、いつもお腹を空かせていたので、時々残り物をタッパーに詰める私に、宗像クンは「腹ペコ君に差し入れだね」なんて言っていた。
その後も連絡を取り合う中、自然な成り行きでHBBのロゴを作ってくれることになった。超多忙であるのに、斎藤クンはマメに連絡をくれ試作を重ねること数か月、遂に完成した。私達のイメージ通り、いやそれ以上の出来で製作者も納得のようだ。玄関に早速貼り付けた。友人にはLINEで自慢した。年賀状にも使うことに決めた。
引っ越して1週間で大晦日になった。特別なことはしないと決めたが、地元の「てつ魚屋」からお刺身とお寿司を買った。移住する前の我孫子との行き来で、あまりにもお刺身が美味しく、魚を愛する私達はすぐに店のファンになってしまった。
家の片づけを早めに切り上げて夕飯。ピカピカのお刺身とお寿司と熱々のアンコウ鍋を前にビールで乾杯。大きなストーブを買ったので充分暖かい。連日の疲れもあり、私はあっという間に酔ってしまい、寝た時間も覚えていない。
私はここ数年年賀状を書いていなかったが、引っ越したこともあり宗像クンと連名で出すことにした。連名で出すなんて生まれて私は初めてのこと(宗像クンは違う、過去にそれを貰ったことがある私は知っている)。
一生懸命文面を考え、宗像クンは得意のパソコンを駆使し遂に完成。そこには11月にドローンで撮影した動画がQRコードから読み取れる仕組みになっている。勿論宗像クンが年賀状のため編集したものだ。
宗像クンはその出来栄えに満足し、送った人達からの反応を待っていたのに、反応がない。送った人々の大半が元同僚、IT関係者というのに全くない。「去った者には冷たいのサ」と少し寂しそう。
一方、私の知り合いはアナログが多い。だって教師だし、年寄りだし。ところが反応が凄い。「見たよ、いい所だねェ」「海がすごいね、必ず遊びに行くよ」「な、な、何と凄いところかとビックリ、日本じゃないみたい」という調子で続々と感想が届く。IT業界では普通のことがアナログには物珍しいのだろう。
年賀状も捨てたものではない。来年も作ろうかな。ドローンの撮影は無理だから、新しい動画を撮らなければネ。来年はきっとみんなの反応があるに違いないよ。
用事があって仙台にでかけた。どうせなら居酒屋で呑んで食べたいと1泊することにした。越してから1か月、久しぶりの都会にワクワクしたが、ヒトに酔ってしまった。高いビルに首が痛くなってしまった。翌日帰宅し深呼吸をしたら胸がスウッとした。ただいま、原町とHBB。
この辺の人たちは買い物に、遊びにと気軽に仙台に出かける。高速だと1時間で着く。40年以上も都心まで電車で30分のマチに住んでいたのに、私はどうやら本物のイナカモンだったらしい。
1月、市の図書館が主催する読み聞かせ講座募集を広報誌に見つけた。HBBの活動の一つに「読み聞かせ」を考えていたので申し込んだ。駅からすぐの図書館は移住前からずっと気になっていた素敵な建物だったし、そろそろ知り合いを作りたかったこともあって張り切って出かけた。
講座の内容も良かったが、私が特に刺激を受けたのは本に対する参加者の想いだった。その想いで参加者が繋がっている空気があった。経験上、今まで受けた市民講座でそういう空気はなかったように思う。不思議な経験だった。この町はいい。ホンワカした気持ちで歩いて帰った。今日は春のように暖かく少し汗ばんだ。「読み聞かせ」にふさわしい絵本や児童書を購入するのが楽しみだ。
後で分かったが、図書館はグッドデザイン賞に選ばれた建物、素敵なのは当たり前。外観だけでなく中も開放的で機能的、多くの市民が静かに時を過ごしていた。この図書館の建設に貢献した〈としょかんのTOMOみなみそうま〉という会を知り、早速入会した。
昨年始めたパン作りを再開した。私のテキストは池田愛美さんの「ストウブでパンを焼く」「こねずに作れるベーカリーパン」の2冊。長時間こねず、発酵は冷蔵庫で低温でじっくり、ストウブ鍋でかりッと焼き上げる方法だ。我孫子では初心者としては上手くいっていた。それなのに、同じやり方なのに発酵しない。1ミリも発酵しない。お湯に浸けたり、ストーブのそばに置いてもダメ。粉を変えてもびくともしない。カフェを開いた時役に立つに違いないと始めたけれど、膨らまない理由が分からず悲しくなり、やる気もなくなり、嫌いになった。
のんびり片付ければいいはずだったが酷すぎる。どこにもかしこにもモノが溢れている。
こんなに沢山のモノが小さなマンションに納まっていたのが不思議だ。大体モノが多すぎる。長い間一人暮らしをしてきた同士が一緒になったのだから当たり前だ。電化製品も家具も食器もフライパンも大根おろしも2セットになり、同居の際に処分した。それでも多いのは宗像クンのせいだ!
やたら道具を持っている。ゆで卵をつくるモノ、野菜の千切りをするモノ、野菜の水切りをするモノ、料理によって使い分ける何本もの嵩張るトング、何種類ものフライパン、何枚もの鍋の蓋、てんぷら鍋大小、寿司飯のための大小の桶、蕎麦を食べる漆(偽物だが)の食器などキリがない。
この人はすべてのことを代用品で間に合わせず形から入る。数年に1度しか使わないモノも揃える。余談だが、料理の材料が一つでも足りないと買う。めったに使わない調味料も買う。それらは必ず残る。結果キッチンが溢れる。賞味期限が切れたものをそのままにするのは私も同じ。でもね……。
宗像クンは道具のほかに最新の電化製品好きでもあり、IT畑が長いから…後は想像にお任せするが、極めつけはキャンプ用のモノ達だ。テントや椅子や炊事道具は重くて嵩張る。結婚した時には遠慮があって「捨てて」「邪魔」とは言えなかったけれど、マンションを引き払う時はキッパリ言ってバンバン捨ててもらいたかった。しかし、他のモノは処分したがキャンプ用のモノは殆ど残っていた。
しかし、不思議だ。キャンプ用品は目障りなので、押し入れに全て入れたはず。だとしたら、今目の前に広がっているモノは何だろう?誰のモノだろう?
今年は例年より暖いらしく蕗の薹が出始めた。1月の終わりには近所の宮寺さん(山菜の師匠)にいただいた天ぷらを食べた。私は山菜の中で蕗の薹が一番好きだ。何と言っても色が清々しい。寒さで他の植物が活動する前、春の訪れを知らせる健気さ、開きかかった花の愛らしさ、力強い香り、群生している様に胸が高鳴る。
ほろ苦さを楽しむには天ぷらが一番。蕾が美味しいという説もあるけれど、少し開きかかっても、成長しすぎてもそれぞれに味がある。蕗味噌も好きだ。
今日散歩の途中、ついに自力で見つけた。大切に摘み、ポッケに入れて持ち帰り天ぷらにした。キッチンが芳醇な香りに包まれ、宗像クンのビールが一段と進んだ。
初めて蕗の薹を見つけてから、散歩での視線は土手と地面にしか行かなくなった。お隣の遠藤さんは「フキが出るところに生えるんだよ」と教えてくれたが、新参者にそれは無理。来年に期待してほしいわ。「遠藤さんはたくさん食べられていいね」と羨ましがると「食わないよ、飽きた」。何と勿体ない。
今日見つけた場所はすぐ近くの土手、しかも沢山。誰もいないのに何故か焦ってしまい、気付いたら急斜面の上まで登っていて転がり落ちるところだった。お年寄りが山菜採りの途中で亡くなるニュースが頭をよぎる。
今夜も天ぷらを堪能、宗像クンのビールが進む
目が蕗の薹に慣れてきたのか、季節が蕗の薹の盛りになったのか、毎日豊作過ぎる。大量に採れるので前処理も大変。宗像クンの感動も薄くなり、蕗の薹より麻婆豆腐に手が伸びるようだ。蕗味噌は田舎味噌と西京味噌でそれぞれ作った。どちらも美味しく、その後何回も作った。手が真っ黒になり、ご近所さんにお裾分けもした。
私達の蕗の薹好きを知って、親切にもお隣の遠藤さんが届けてくれた。しかもイッパイ。宗像クンが埼玉に住む元同僚に「食べる」?とLINEしたところ「大好き!」と即答。好かれているのは宗像クン?蕗の薹?それとも両方?
どうせならと今年最後の蕗の薹摘みに出かけることにした。そこは徒歩1分で着く正真正銘私が見つけた穴場だ。採り尽くしたと思ったがまだまだあるではないか。豊かな春の幸をどうも有難う、来年も宜しくとお礼を言いながら摘んだ。花が開きすぎて茎が固いのは自家用にしたが、それでもかなりの量になりクール便で送った。夜になって埼玉から美味しそうな天ぷらの写真が届いた。大好きなのは蕗の薹サンだったらしい。我が家の天ぷらもカラリと揚がりビールが進んだ。
荷物が多い点では宗像クンに負けていない私。特に本と民族楽器と食器。この3つはHBBで必要になる物達だからキャンプ用品より何倍も態度が大きい。リフォームで押し入れを取り壊し、新たに棚を作り楽器と本を置くことした。収納力を上げるため本棚はオーダーで注文した。それが届いたのだ。早速組み立てて本を収めた。引っ越しの段ボールは見事になくなり、本はスッキリ!
しかし、2間続きの和室は収納場所に入り切らないものがまだある。和室は活動の中心になるスペースになるので何も置きたくない。家はとても広いと思っていたが、自由に使える部屋は居間兼寝室の一間だけと改めて認識した。
宗像クンがカタログを取り寄せ、ネットを調べ、ついに物置が我が家にやってきた。梱包したままの電子ピアノ、布団用の物干しなど大物の他に、キャンプ用品も入った。これならストーブなどの季節用品も余裕で入る。そして和室が理想通りの部屋になった。
後日、ようやく恩人のターさんを招待した。新しくなった家を案内し、和室で食事を差し上げることができた。ターさんが喜んでくれて私達も嬉しかった。
市の広報紙で「子ども食堂の立ち上げを目指す人のための講座参加募集」を見つけ申し込んだ。子どもと飲食はHBBのキーワードだ。何か参考になれば、という軽い気持ちだったが凄かった。まず〈こども食堂〉に対する私の認識が間違っていた。経済的な理由で食事がままならない子供たちへのボランティアと思っていたが、地域のコミュニティづくりの場だと分かった。
子ども食堂に家族全員で来るファミリーもあるという。働く母親の家事の負担が少しでも軽減出来て、その日はゆっくりできると楽しみにしている方が多いらしい。宿題を広げた子供の面倒をみる地域の若者もいる。一人暮らしの高齢者はにぎやかな食卓に笑顔になる。これはHBBが目指す理念と共通だ・。
この講座は2回連続参加が基本、2回目の講座は少人数のグループでのワークショップだった。そこで素敵な若者4人と出会った!!小学校の先生辻君。内装の仕事をしている佐藤君と英語が得意な妻のりえさん。将来パン工房を開きたいな岩本さん。
来月、我が家で親睦会をすることになった。素敵すぎる!
ほぼ毎日東ヶ丘公園内の原生林を歩いている。が、今日は何か様子がおかしい。別の場所のようだ。よく見ると色が違う。萌黄色の新芽が一斉に芽吹いたからだ。竹の節が延びているのか、竹林からは爆ぜるような音がする。
家に戻って改めて山を見る。昨日まで空が見えた木々の隙間が、透明な薄緑に染まっている。どこもかしこもそうだ。山が生きている。
ウットリ山を見ていてハッと気が付いた。今日何もしていないことに。昨日も昨日もその前も…。HBBオープンに向けてやることは限りなくあるのに。何もしないのに一日があっという間に過ぎてしまう。
ヤヴァイ!3月も半分まで来ているではないか。「春になったら」「今まで忙しかったから」「充電も大切」と言い訳をしているうちに。流石に不安になり、宗像クンに「明日からHBBのチラシを作ろう!」と提案した。
裏の北崎さんが2月に教えてくれた。「今のうち庭に除草剤を撒いた方がいいよ。粒がいい。スギナが出る前に」忠実に従った。粒の薬を2回撒き、すっかり安心していた。
それなのに今朝、猫額しかない庭に緑の尖った草が芽を出していた。通りがかった北崎さんが「出たわね、スギナ。夏は雑草との格闘になるわよ」。その時点でも私は呑気。「いえいえ、ウチの庭はお宅のように広くはありませんから大丈夫」と心で呟きそのまま放置した。
翌日は更に増えていた。芽先を摘まんだだけで容易く折れるが、指先の感覚で根は相当深いと分かり、急に不安になる。
その日は内科の診察日、待合時間にスマホで検索すると「地獄草、スギナ」の文字が目に飛び込んできた。液体の強力な除草剤と専用のジョウロを買い早速散布しているところに、山菜の師匠が登場。「スギナは根っこが深いから掘らなきゃだめだよ」と言い、自宅から大きなスコップを持って来た。そして芽が出た場所を力強く掘った。バリバリ、ブリブリと音がして根っこが現れた。掘っても掘ってもその音が続く。まさに地獄草だ。
うちもスコップを買った。かなりの深さまで掘り起こす。起こした土を広げると、緑のスギナとモヤシのように白く細いスギナ、シマシマのつくしの赤ちゃん、白く太い根、朝鮮人参のような根、黒い極太ロープのような根が混ざって出てくる。みんなスギナのファミリー、固いきずなでガッチリとスクラムを組んでいる。それを手でより分けて、ファミリーをバラバラにし捨てる。肝心なのは全部捨てること。容赦なく。そうしないと、僅かな根っこからも逞しく再生するのだ。地獄草とは、スギナを退治するのが苦しいからだと理解していたのは間違い、地獄まで追っていけ!という意味だ(と思う)。
1日中この作業を続けると翌日は腰が痛くて動けない。宗像クンも音をあげた。そんな思いをして掘り返しても、翌日ちゃっかりと可愛らしい芽が出ている。土の下ではスギナファミリーが嘲笑っている。
腰痛にサロンパスを貼り、痛みを騙しながらスギナと闘っている。通りかかった人達が声を掛けて下さる。有難い言葉は「同情系」「慰め系」「激励系」「指導系」に分類される。
「スギナの勢いが弱る迄には何年もかかるよ。とにかくしつこいんだ(そうなんですか、ガッカリ)」。「いくら掘っても根が切れたら、そこから生えるんだ(これからも腰痛と闘うのか)」。「ウチにも一面に生えるけれど、裏庭だから放っておくことにした(我が家には放っておける裏庭がないのです)」。「ムキになると腰を痛めるから、今日はこれだけと決めた方がいい、どうせすぐ生えてくるよ(有難うございます。その境地に至る前に腰が持つかどうか?)」。「根気強く退治すると、そのうち相手が諦める(この言葉を待っていた!)。ウチは10年くらいで出なくなった(ゲッ、80になってしまう)!」。「砂利を撒いても出てくるよ。砂利の間に指を突っ込んで抜かなきゃならない、これが又痛いんだな。(砂利は既に駐車スペースに撒いてしまいました)」。「目立たないところは防草シートがいい。わざと伸ばして草刈り機で刈り取る方法もいいよ。(成程、根こそぎやっつけるばかりでなく、知恵と道具が必要なんだ)」。
この地で楽しみながら生きて行くコツを教わりました。通りがかる方がみんな声をかけて下さることが、新参者には一番有難いこと。まさに地獄に仏。
隣の遠藤さんと、山菜の師匠は杖を使って歩いているのに、私達が闘っているのを見ると手伝って下さる。有難うございます。
春の山菜の楽しみ、主役は蕗の薹からタラの芽に変わった。我が家の目の前にある山は陽当たりがよいせいかタラの木がたくさんあると気付いたのは宗像クンだ。東ヶ丘公園の入り口に至る道中にもあるが、こちらは散歩をする人が知り尽くしている。芽が小さいから明日のお楽しみにキープしておくと、帰りには既になくなっている。だから、宗像クンの発見は貴重だ。
何せタラの芽は山菜の王様、圧倒的な存在感がある。スーパーで栽培ものをよく見るが小さくて風味が薄い上に高い。天然物は堂々として苦みも香りも比べ物にならない。
タラの芽は天ぷらに限る。カラッと揚がると嬉しいものだ。塩で食べるのがいい。独特の風味にビールが止まらない。何だか蕗の薹日記に似てきたゾ。
大きな樹には次々と芽が出る。そのため、数日おきに宗像クンは急傾斜の道なき道を登った。ジーンズと棘に負けない手袋を身に付け、近所から高枝バサミを借りて。もちろん埼玉の元同僚にも送った。私も天ぷらを上手に揚げるコツが分かってきた。山の恵みに乾杯!
「いずれカフェをやるんだからその練習で」とN氏から3人分のランチを依頼された。
煮魚、山菜の天ぷらの他、副菜を三種、到来物の筍で炊き込みご飯を作った。皆さんよく召し上がってくれ嬉しかったが、何せ慣れないので、調理が佳境に差し掛かると手順が悪くなる。焦って無駄な動きが多くなるようだ。
こういう練習ができるのは有難いことだ。原価を気にしたり、盛り付けのプランを立てたたりするのは楽しい作業だった。
原町には比較的たくさんの魚屋さんがある。魚好きの私達には嬉しい環境だが、地のものがやや少なく物足りなく思っていた。後に震災と原発が関係していると分かった。以前は賑やかだった漁港がなくなり、最近になってようやく復活したところも多いと聞く。そんな中、相馬市松川浦への道中、磯部に水産加工所の直売所を見つけた。カレイ、烏賊、のどぐろ、北寄貝などその日上がった地の魚が並ぶ。しかも安い。
それ以来、私達は10日に一度必ず足を運ぶ。ホッキを楽しんだ後は白魚が並んだ。のどぐろは高級魚としてお馴染みだが、年金暮らしのお財布にも優しく、煮たり焼いたりして堪能した。新鮮な烏賊は皮がスルッと剥がれ、お刺身が手軽に食べられる。カレイと目光は常時あるのでお土産に買って喜んで貰えた。そうそう、2月にはズワイガニもあった。
レジにいるコンノさんが美味しい食べ方を指南して下さるのも嬉しい。北寄貝のお刺身の捌き方も、種類が多いカレイの調理方法も、ノドグロの煮つけ方も教わった。どれもが抜群に美味しかったし、簡単なのだ。
今日の目当ては平爪蟹。渡り蟹に似て小ぶり、唐揚げや味噌汁が美味しい。明日埼玉からお客様があるので、唐揚げをご馳走する予定。あった!1パックに4杯入って550円、2パックゲット。他にシラス、目光、ノドグロの干物、小ぶりの烏賊を購入。ホクホクして帰ってきた。
HBBの事業に宗像クンの「パソコンよろず相談承り」がある。先月プリントパックでチラシを作り、ポスティングと新聞折り込みをしたところ反応が3件あった。ヤッホー!
宗像クンが張り切っているのを見るのが何より嬉しい。彼は昨年3月に退職して以来、移住に関係する雑務を一手に引き受けてくれた。私が復職してからは家事を全部やってくれた。一方、私は素直でない(と多くの人に言われる)。感謝の言葉を表現するのが下手だ(自分でも知っている)。おまけに申年の末っ子故、甘えたい、威張りたい、構ってほしい。そんな私のお世話は宗像クンにとって負担に感じる時もあったに違いない。
やさしい宗像クンがこれまでのキャリアを生かせるチャンス、私も精一杯バックアップしていこう。HBBの未来に乾杯!!
昨年の今頃は美味しい筍を買いに鎌倉まで行った。美味しかったが高かった。スーパーで筍を買う時はお財布の千円札を確認して出かけていた。だから筍を戴くとチョー嬉しかった(灰汁抜きしてあると嬉しさ倍増)。
それが原町に来てから一度も買っていない。途切れることなく誰かが届けて下さる。筍ご飯、澄まし汁、煮物をくり返し楽しんだが、まだ到来物は続いている。米ぬかで茹でるのも慣れて全く苦にならなくなった。むしろキッチンに漂う香りが大好きになった。
今日は埼玉からお客様が来るので、筍尽くしにしようと決めていたら、新たに到来物が届いた。何かもう一品と思い、筍を豚肉で巻き、米粉をまぶし揚げてみた。他に山ウドの天ぷら、目光の素揚げ、平爪蟹の唐揚げも作って一皿にした。山椒塩とレモンを添えた。見た目も鮮やかでボリュームのある皿となり、お客様は歓声をあげて喜んで下さった。お金をかけずに地のもので喜んで貰えるのは、料理する側にとって最高の幸せだ。山と海の恵みが豊富なこの町は最高!
移住してやりたかったことの一つは味噌づくり。越してすぐ、手ごろなキットを販売している店を見つけた。鹿島の老舗、若松屋さん。10㎏を仕込み完成まで10か月かかるというので、すぐに食べる分として出来ている味噌を3㎏購入した。
翌朝の味噌汁が変わった。まろやかで風味が違う。煮干しとの相性もいい。前夜から煮干しを浸しておけば濃厚な出汁が出て、味噌が少量で済むのも私達の年代では嬉しい。粕汁や洋風の味付けにも合う。
今日は3㎏を消費したのでお替りを買いに出かけた。後継者がいらっしゃると店主が嬉しそうだ。私達もすごく嬉しい。
白鳥が飛来する磯部の手ノ沢溜池、南相馬にも飛来地は多くあるが、ここは景色も鳴き声も見事で飽きない。他にいる何種類もの水鳥の声と重なり音楽になっている。今は静かになったが、ここに来ると冬の光景が蘇る。来年の飛来を心待ちにしている。
小高郊外、小谷摩達(おやまだつ)の相馬牧場。ここにはサフォーク種の羊がいる。羊のショーンだ。70頭ほどのショーン達が一斉に鳴きだすと圧巻だ。たった一つの歌詞「メーエ!」とそれぞれが鳴くだけで立派な合唱になってしまう。
こんなユーモラスな合唱は教師経験が長い私でも聴いたことがない。高音から低音までの幅広いピッチ、間の取り方も、音色も、延ばし方もそれぞれのショーンは計算していない。時に重なり、時に呼びかけのようにと絶妙だ。こんな優れた即興演奏を人間には出来ない。CDにしたら売れること間違いなし!
相馬牧場のスタッフとのお喋りも楽しくて、私達はよく遊びに行く。今日もこれから出かける。相馬牧場で遊んで来ると、何だか優しくなれる。そんなことを並べた後で言うのも何だが、ここで手に入るお肉が素晴らしく美味しい。正直のところ誰にも教えたくない。蕗の董とタラの芽の場所よりも…。
原町区牛来大塚5-3、我がHBBに1日中響き渡る鳥の鳴き声は秀逸だ。私は鳥の声が大好き、カラスでも楽しめる。その私が折り紙を付けるのだから間違いない(と信じる)。サウンドスケープ、つまり音の風景は音だけでは成り立たない。そこにいる人々の生活音や、取り囲む自然の風景と合わさってこそのものだ。
HBBの付近はその全てが揃っている。花も木々も山々も素敵だ。
朝、縁側に座り鳥たちの声を聴くのが日課になった。下手だった1月に比べ今や見事な鳴き声に成長したウグイスを主役として、雲雀やツグミ、メジロ、スズメの声が加わり、合間に雉によるアクセント的な声色が入る。冬には、大空を悠々と飛ぶ白鳥の声に思わず感嘆の声を上げたものだ。
夕方キッチンに立っていると、聴こえる鳥の声が気になり作業を放って外に出る事も多い。それなのに、他にいるだろう何種もの鳥達の名前が分からない。こんなに楽しませて貰っているのに失礼だと思う
元々私は朝が弱い。ボウっとして化粧水の瓶をジュースと間違え、口に含んだ時もある。教師は好きだったが、他の仕事に比べ朝の始まりが早い事だけは嫌だった。朝からテンションの高い子供たちに「モッチー(私の愛称、望月だから)オッハー!!)と挨拶されると正直ゲンナリしてしまう。反対に、朝から不機嫌な生徒には「分かるヨ、その気持ち」と嬉しくなるが、決してそれを言ってはいけない。何せ学校のモットーは「元気に挨拶をしよう!」。「おはようを言おうね!」何て自分が出来ないくせに要求しなかればならない。
退職してからの朝は超ご機嫌だ。目を覚ます。しばらくボウっとする(再び寝ることもある)。パジャマのままキッチンに白湯を取りにいき、リビングでそれを飲みながら、点鼻薬と目薬でアレルギー対策をする。使ったティッシュ4枚は2枚ずつ丸めておく。コットンで化粧水をゆっくり叩き、次にプラセンタ液。使ったコットン3枚は1枚ずつ丸めておく。クリームをゆっくり塗りお肌のお手入れは完了。途中クシャミが出て、ティッシュを使ったらそれも丸めておく。決して急いではいけない。この時間は退職後に生まれた至福の時なのだから…。
次に丸めたティッシュとコットンの球を3メートル離れたゴミ箱にシュート!球は最低でも6球ある。外れたら拾って再びシュート、全部入る迄繰り返す。これだけで1000歩くらいは稼ぐのではないか。途中クシャミが出ると球が増える。ティッシュとコットンでは重量が違うので、腕の角度やスナップを微妙に変化させなければならない。邪念が入ると決して命中しない。実に奥が深い。WBCのTV観戦は変化球を投げるピッチャーの研究に熱中、ジャイアンツ「大勢」の大ファンになった。
全部の球がゴミ箱に入ったら、ようやく着替えて朝食をつくる。ここまで1時間以上かかる。宗像クンは私より遥かに早く起き、ゴミを集積所に運び、洗濯を済ませ、コーヒーを飲みながら「あまちゃん」と「らんまん」2本の連ドラを観ながらじっと待つ。決して私を急かしたりしない。この時間は私にとって1日の大切なスタートだと知っているから。
ありがとう、退職。それなのに最近アレルギーが収まってきたのか使える球数が少なくなってきた。
移住前の暮らしでは、出かけない限り休日は人と話さなかった。その暮らしが嫌いではなかった。だから結婚してからの休日に宗像クンが出かけると嬉しかった。誰とも話さない日が時々欲しかった。
昨日は何も用事がない日、殆ど家にいたにも関わらず沢山の人と話した(挨拶程度を含めて)。数えてみよう。
①朝の空気を吸いに外に出たら、庭仕事をしていたお隣の渡辺さん親子が挨拶してくれ、そのまま花談義。2人。
②花談義の延長を深めるため、ガーデニングの達人北山(仮名)さんのお庭を見学。1人。
③書き物をしていたら右隣に住む遠藤さんが山独活を届けにきてくれた。1人。
④宗像クンを病院に送る途中、植え込みの作業をしていた石橋さんと挨拶。1人。
⑤書き物に疲れ東ヶ丘公園を散歩中、ご近所の渡辺さんと挨拶したのを皮切りに、名前は存じ上げないが顔馴染みの方々と挨拶。5人。
⑥夕飯の準備中、勝手口をノックし山菜の師匠が蕨の煮物を届けてくれた。勝手口のドアは、棚が置いてあるため体の半分しか入らない。師匠は顔と体を斜めにし山菜の講義をしてくれる情熱の持ち主だ。1人。
実に11人もの人と話したことになる。この生活が苦手な人は移住に向かないだろう。私は教師という職業柄、一日に話す人数が余りにも多かったため、休日は一人になりたかったのだと思う。今も一人の時間が好きだ。でも、外に出れば誰かとお喋りできるのは健康的でなかなかいい。ここでは、ご近所さん達とのお喋りは青空の下だ。空気がいいと笑顔になれる。通りがかった人が加わり大声になっても平気だ。これが何より清々しい。
家の周りに勢力を伸ばしていたスギナだが、芽が出る度に掘り返して根を取り除いたり、除草剤を撒いたりしているうちに少し大人しくなってきた。以前は土自体が固い上、石やセメントの欠片も混ざっていて、スコップで掘り返すにはかなりの力を要した。さらに何年も放置され、深く太く蔓延ったスギナの根を退治するには根気もいる。庭仕事に慣れない私達には重労働だった。
しかし、この作業を繰り返しているうちに、土が柔らかくなり、異物が取り除かれ、スギナの根の牙城が崩されたらしい。さらに私達もスギナに慣れてきた。絶対やってはいけないのは、スギナの芽がちょこんと地面に出てもすぐ抜いてしまうこと。オーストラリアのエアーズロックと同じで、地上の芽はスギナ全体のわずか1%にしか過ぎない。プチッと折れるだけで翌日には再び芽を出す。その素早さは人間を嘲笑っているようでもある。「芽を出しましたぜ、ダンナ。早く引っこ抜きなさいよ。痛くもかゆくもありませんぜ。あっしら次々と後がありますねん。」
そんな誘いに乗らず、芽が少し伸びてきたら、ゆっくり根を引き上げ、移植ごてで根を掘り返すのだ。憎しみを込めて力任せに引っ張ってはいけない。根を出来るだけ長く追跡していくと、ファミリーがゾロゾロ付いて来る。仏心を捨てて、真っ白の細いモヤシも、赤ちゃんスギナも残さずに取り除く。
少しばかり作業がやり易くなったとしても、スギナとの闘いはまだ始まったばかり。除草剤を撒き続ければ、他の植物が痛むだろうし、費用も馬鹿にならない。気長に、根気強く付き合うしかないのだ。今日も、雨上がりで土が柔らかくなったので一人でスギナを抜いた。バケツに一杯分を一人で。何かさぁ、私達さあ、スギナに慣れてきたのか楽しくなってきたよね・・。と家の中に籠ってパソコンに向かっている宗像クンに声を掛けようとした。
ん?何か違和感がある。違う、weじゃないIだ…。チマチマとスギナを抜いているのはIだ。
スギナ
ファミリー
一時は大嫌いだったパン作りを3月から再開した。それから2ヵ月、今はパンが面白くて仕方がない。将来パン工房を開こうとしているガンちゃん(岩本さん)と偶然知り合い、アドバイスして貰ってから膨らみ始めた。丁度気温も高くなり始めたのも良かった。自分より遥かに若い友人から教えて頂くのは嬉しいことだ。パワーを貰える。
私はそれまで池田愛実さんのテキストだけで試作してきた。その方法は「こねない」「発酵は冷蔵庫でじっくり」「ストウブ鍋でパリッと焼成」がポイントである。ガンちゃんは基本は本の通りで良いと前置きして、「パンこねの必要性」「材料の見直し」「発酵に必要な諸条件」について説明してくれた。それまでレシピに頼るしかなかった私だったが、その説明でパンがふんわりと発酵し、美味しく焼きあがる理由を知ることが出来た。
新たに幸栄さんのテキストも買い、他のテキストは本屋で立ち読みし、ネットで検索した。こうして集めた情報と自分の経験とを基に「この方法が理にかなっているのでは?」の仮説、つまりいいとこ取りで試作を再開した。結果、見事に膨らみ味も上々。自分なりにつかんだやり方は「丁寧にこねて生地をつくる」「発酵は冷蔵庫でじっくりと」「ハード系のパンはストウブで焼く」「小麦粉を吟味する」の4つ。捏ねるためのミキサー、発酵の温度を測る温度計、焼き目を綺麗に開くクープナイフも買い揃え、色々な種類のパンに挑戦しているところだ。形を綺麗にするまでにはまだまだ練習が必要そうだが、楽しくて仕方がない。3か月前のどんよりしたあの気持ちが嘘のようだ。
更に究極のコツを身に付けた。パン生地を赤ちゃんのように扱うことだ。子守唄を歌いながら寝かしつけるのと同じだ。そうするとパンは焼き手の気持ちに応えてくれる。何せ生きているのだから。パンは愛しい。今もフォカッチャを焼きながらこれを書いている。ローズマリーの香りが漂ってきたよ…。ヒャッホー!!
考えるきっかけはウクライナの爆撃で市民が嘆き悲しんでいるTV映像だった。「こんな修羅場を観ているのに、映像から痛みが実感できる人はどの位いるんだろうね?」と呟いた私に、宗像クンが「修羅場ってとても酷い事だよね。殆どの人が悲しいと感じているんじゃないの?」と反応してくれた。「そうかな?修羅場を経験したことがない人には本当の痛みではなく、単なる悲しみとしか伝わらないと思うよ。」と答えて、何か違和感を感じた。あれ「修羅場」って何だっけ?
それまで私は口汚く言い争ったり、暴力を振るったり、命を奪ったりする場面を自分の目で直接見て、聞いて、恐怖に慄くことが「修羅場」だと理解していた。だから、幸運にも「修羅場」を体験しない人もいるのだと。私には悲しい体験が複数あった。子どもの時は家族が、大人になってからは仕事場で…。その度に恐怖で体が震え、声も出なかった。たった一度だけ、女性を殴ろうとしていた男性に飛び掛かった時があったが無駄だった。悲しみが傷となって心に残った。それでも、目の前で命を奪われた経験はない。爆撃を受けた人々、津波で流された人々、事件や事故に巻き込まれた人々を目の当たりにしたら、人の心はどうなってしまうのだろう?想像もつかない。
しかし、修羅場は大小で比較できないのも事実だ。こういう時代なので子ども達も修羅場を経験している。教師時代はいじめや両親の争いを子どもの口から聞くのは辛かった。あまり書きたくないが教師による体罰、反対に生徒が教師に浴びせる暴言と暴力も経験した。これらのことは思い出したくない。心に蓋がしてある。
だから、TVに「修羅場」の映像が流れると身が縮む。それは「悲しみ」とは違う感情だ。そのことを宗像クンに説明すると彼が呟いた。「そうなんだ、じゃあ俺が小学校の時、両親を続けて亡くしたのは修羅場とは言わないんだ。」
私はハッとした。「修羅場」の正確な意味などどうでもいいのだ。小学生だった宗像クンの悲しみや心の痛みがどれだけのものだったか、それは彼だけが知っており、言葉で説明できないものなのだ。だから、ウクライナの映像を観て「本当は痛みが分かっていない。それは悲しみにしか過ぎない。」と言った私の発言はとんでもない思い上がりだったのだ。言葉の解釈が正しいかどうか、修羅場の経験がどの程度のももなのか、そんなものに関わらず、人の心の痛みそのものを自分の痛みにできるかどうかが肝心な事なのだ。
私は言葉に敏感になりすぎることがある。(そのくせ自分も間違うのだが・・。)しかし、それでも、やはり言葉を大切にしたい。言葉は心の細かいところまで表現してくれる宝物だから。しかし、一番大切なのは「心」であることを忘れずに言葉を追いかけていきたい。
HBBが春から少しずつスタートしている。8月のコンサートとワークショップの概要が決まり、宗像クンのパソコンよろず相談もポチポチと入っている。いよいよ最終目標のカフェを目指す時が来た。
飲食業のスタートには保健所の許可が必要だ。そのためにはキッチンを家庭用から営業の仕様にしなければならない。床に保護シートを貼り、新たに換気扇取り付け、2槽シンク、火力の強い頑丈なガス台、大きな作業台、手洗い専用台などを設置する。冷蔵庫と冷凍庫も必要だ。炊飯器や魚を焼くグリル、コーヒメーカーも、食洗器も今のままでは事足りない。勿論調理用具や食器も買わなければ…。構想をあれこれ考えるのは楽しい。問題は資金だ。
歳をとってから再婚した私達には金銭的な余裕がない。何せお互いにモト家族への養育費やモト伴侶と建てた家のローンなどがあって、他人様が想像するほどの貯蓄はないのだ。だから、福島県12市町村起業支援金を申請し、キッチン改修や必要な備品購入に充当することに決めていた。自分たちが住むスペースのリフォーム費用支援に続き2度目の補助金申請となる。そして起業支援が認可されると、福島県12市町村移住支援金の申請資格を取得できる仕組みになっている。県も市も被災地復興のためとは言え移住者に対して手厚いシステムを用意して下さり、本当に有難い。
申請締め切りの6月16日に向けて、5月から取り掛かること約1か月半、何をしていても申請書類が頭を離れず、眠れない夜もあった。何せ膨大な内容を埋めなければならず、書いても書いても終わりが見えない。6月に入って何とか見通しが立ったので、どうしても分からない点を解消すべく県に問い合わせた。すると驚く勿れ書き方のサポート機関が別にあると分かった。早速電話する。疑問は直ぐに解決した。しかも提出の前にチェックもして下さるという。それをメールで送ったあと、安心してゴルフ練習場に出かけ「仕事が終わったあとは爽快だね~」なんて呑気な私にサポート機関のTさんから電話があった。「急ですが明後日原町に出かけますので、お会いしてお話しましょう。私ともう一人、その道に精通しているkとで対応します」との話に、小心者の私はドキドキして「何かトンチンカンなことを書きましたか?」と聞いた。「そういう事ではないのですが、お目にかかった方がいいと判断しましたので」との答え。とにかくお会いするしかない。
で、結論。お二人の熱心な指導のもと、書き直したり追加したりして出来上がった申請書類一式は別紙資料を含めると15ページにも及んだ。それとは別に、住所や戸籍に関する書類を市役所と法務局から出してもらい、締め切り前日の15日に投函できた。14日はT氏にメールで最終確認をしてもらったところ、大きな数字の間違いを見つけて貰った。そして両氏から「GO!」を頂いたのは夜中だった。感謝の言葉もない。
この間の2週間は正に怒涛の日々が続き、ゴルフの練習は勿論スギナの退治もせず、朝の連ドラも、大好きなプレバトも視ていない。宗像クンは添付する設備費と工事費、購入する備品の型番まで書いた明細書を作り、私は起業動機から、向こう5年間の展望まで具体的な数字を交えて書き直した。作文なら書けるが、原価計算や光熱費、仕入れの詳細まで示しながら、カフェを起こす意義について書くのは大変だった。2人ともイライラして些細なことで言い争いもした。
T氏とK氏には本当にいい勉強をさせて貰った。教師の経験を基に作文をタラタラと書いた私に「曖昧で理想しか書いてないのです。これではビジネスには通用しません。趣味の延長で起業したら持って3か月、すぐに客は来なくなります。そんな人に補助金出しますか?」などの言葉は痛かったけれど、真実が故に受け入れられた。しかも、その後のフォローも丁寧にしてくれた。これが彼らの仕事とは言え、単なるビジネスとは思えない親切さだった。書類審査の他に今後面接とプレゼンもあるらしい。それも予行練習して下さると聞き、又緊張の日々が来ると思うと気が重くなる一方、次はどんな言葉で私の目を覚まして下さるのか楽しみでもある。
今後移住や起業をお考えの方々に自信を持って言えることは「世の中には(その道のプロ)が必ずいて、厳しいけれど温かくサポートして下さる仕組みになっています。人生はチャレンジの連続、老いも若きも事を起こそうとした時に大切なのは、勇気だけでなく自分一人で頑張らないこと」だと思います。なんて先輩風ですが、実感です。
先月、HBBのインスタを始めた。南相馬で見つけた花、素敵なモノの写真をアップしている。花はHPの「牛来花便り」と連携しているので良かったらお読みください。
さて、インスタの話。ある日急にインスタに「いいね!」を知らせる音が増え始めた。ユーザー名だけでは誰か分からないので放っておいたが、やたら煩い。そのうち何か見覚えのあるイニシャルが入ってきた。
これは半年前まで勤務していた春日部中の生徒ではないか???
宗像クンも感知し「これ由美ちゃんの教え子だよ、きっとそうだよ!取り敢えずフォロアーになって貰えば?スルーしたら生徒さん可哀そうだよ!」と仰る。
宗像クンはなぜか小さい子や学校の生徒に甘い!みんな天使だと思っている傾向があるので、私が「子どもは時には悪魔にもなるんだよ」と教えているのだが……すでに顔が緩んでいる。そう言われると、子どもに冷たい(本当は温かい)私もさすがに気になったが、結局そのままにした。
翌日の午後、再び「いいね♡」が鳴り始めた。しかも前の日の何倍も。気になる…。いっそのこと着信音を切ろうかと考えたその時、メッセージが入った。「お久しぶりです_(._.)_元1-4の宇野(仮名)です。望月先生で合ってますか?」やはり春日部中だった!早速返信「そうだよー、今日は春中の生徒と思われる人からたくさん♡いいね♡があったけれど名前が分からないからそのままにしておきました。みんな宇野ちゃんみたいにメッセージ書いてくれると分かるんだけれどね。何で私だって分かったの?」この後のやり取りは、あまりにも素敵なのでヒミツ。
その後も♡いいね♡は夜まで続いたが、中に宇野ちゃんから聞きつけたらしい数人からのメッセージが混じるようになった。それらはみんな素敵で可愛らしく私は胸がキュンとなってしまい、顔を思い出しながら短いメッセージを返した。とても嬉しかった。宗像クンはそんな私を見て「先生っていいねェ。由美ちゃんは好かれていたんだねェ」と感動していた。ご飯を食べながらメッセージを読んだり答えたりの落ち着かない夜だったが、生徒たちのお陰でホンワカした気持ちで眠りについた。
それから1週間後、相変わらずポチポチと届く♡いいね♡の中に近藤(仮名)さんの名があった。実はこの子がメッセージをくれるのをずっと待っていた。近藤(仮名)さんはいつも不機嫌そうにしている「気になる子」で、朝清掃を私が担当していた。だから、朝はもちろん、廊下ですれ違っても授業の時でも必ず話しかけていたのだ。
退職するお別れの日、近藤(仮名)さんは私に言った。「これから、誰に話を聞いてもらえばいいの?」暫く考えて私は「自分自身に話しかけてごらん。友達でも親でも先生でも話は聞いてくれるけれど、まずは自分自身にね」と答えた。こっくりと頷いた近藤(仮名)さんの顔を私はずっと忘れられなかった。だからメッセージが届いて安心した。
宗像クンの言うように私は恵まれた教師生活を送ることが出来たのだと思う。生徒のみんな、本当にありがとう。君達に「♡いいね♡♡♡♡♡」
きょうはさいたまから、むなかたクンとおなじかいしゃだったたかはしさんがごふうふであそびにきてくれました。
あいずにいるしんせきからおこめをもらうついでによったのだそうです。
でも、ちずをみるとついでによったのではなく、とうまわりをしてくれたのだとおもいます。
おみやげはとかいのにおいのするワインとおしゃれなはこにはいったやきがしでした。ワインもおかしもとてもおいしかったです。
おひるごはんをいっしょにたべました。むなかたクンがこのひのためにとったやまうどやふきをおいしそうにたべてくれました。
そして、かざってあるみんぞくがっきにきょうみをもったらしく、わたしをしつもんぜめにしました。こんなにきょうみをもってくれたおきゃくさまはいじゅうしてはじめてで、わたしとおなじせいかくかとおもいとってもうれしくなりました。おかえりのとき、わたしはおなじにおいをかんじたおくさまに「ITばたけのとのがたはすこしバランスがわるいところありませんか?」ときいてしまいました。おくさまはアハハとわらい「しょっちゅうですよ!いつもスルーしてます」とこたえてくれました。
わたしもこれからはそうしようとおもいました。
ひさしぶりにともだちとあえたむなかたクンもとてもうれしそうでした。おわり。
埼玉の高橋さんの訪問から数日後、私が我孫子でお世話になった城代さんご夫妻をHBBにお迎えした。城代さん(奥様の方)は私の行きつけの鍼灸院でアシスタントをしていた方、我孫子で暮らした約2年間にできた友人である。と言っても私達は一緒に出掛けたり、ご飯を食べたりはしなかった。2週間毎の施術に行った時城代さんがいれば短く言葉を交わす程度だった。それでは友人と呼べないかもしれない。が、私達は大切な友だった。
短いお付き合いで最も印象深かったのは、鍼灸院の院長と城代さんと私で句会をしたことだ。院長が「ボク俳句を作ったんですよ」と得意気に披露した句を私達が容赦なく添削したのをきっかけに、次から院長と私が句を披露し、城代さんが判定することになったのだ。もちろん私は施術台で治療を受けながらという設定だった。句会は数回で自然消滅してしまったが、その時彼女に垣間見た文学のニオイが私達を結び付けたような気がする。我孫子を去る時に頂いた手紙で、彼女がプロの書家であることを知った。私の直感は正しかった。
移住後、お便りを交換し合い、メールのやり取りをするようになって春が来た。原町の春があまりに美しく、私は彼女に葉書を書いた。何人かの友人にも書いた。そこに必ず「季節の良い時に遊びに来て下さい」と添えた。移住から3か月が過ぎ、人が恋しかったのだと思う。その中で城代さんが「必ず行きます!」と反応してくれた。そして彼女は今日本当に来てくれた。飼っているワンちゃんを預け、鍼灸院を休み、書道教室の隙間の時間を使い、「どういう関係なの?」と訝るご主人を説得し、はるばるこの地に会いに来てくれた。私とご主人、宗像クンとご夫妻は初対面だったけれどすぐに打ち解け合い、食事を共にしながら愉快な時間を過ごした。
人との繋がりを作るのは共に過ごした時間の長さではないと思う。こういう繋がりを作りたくて、私はこの地に来たのだ。
原町で初めてワクチンを打った。私にとって6回目の接種だ。
今まで微熱が出たり腕の痛みはあったけれどいずれも軽く、今回も副作用の心配は忘れていたが、災害は忘れた頃にやって来た!接種翌日の朝、異様に体がだるかったので熱を測ると38度だった。私は平熱が低くあまり発熱しない体質のため、8の数字は滅多に見たことがなく慌てた。食欲もなく、宗像クンが心配して買ってくれたゼリーや果物を食べて一日を過ごした。夜は7度台に下がり、気分も良くなったので軽く食事を摂りTVを観ていたその時、突然悪寒が襲った。体が震え歯がガタガタと鳴った。慌ててベッドに横になり、布団をかけても震えは止まらない。そのうち苦しくなって呻き声を上げた。獣のような声にビックリした宗像クンが飛んできて、冬布団をかけてくれたのと、激しく嘔吐したのとが同時だったような気がするが、その後の記憶がない。いや、一つだけある。「救急車呼ぼうね!」と宗像クンが言ったのに対し「嫌だ」と答えたことだ。自分でも救急車を呼んでほしいと思っていたけれど、ご近所の迷惑になることが嫌だった。その後気を失った。後から聞いたところによると熱は40度を超えていたそうだ。
高熱が出なくなった頃を見計って係り付けの病院で診察を受け薬を飲み始めたが、それから約2週間は倦怠感と発熱に悩まされた。冷たいもの以外何を食べても味が分からなかった。
この間宗像クンがずっと面倒を見てくれた。吐瀉物で汚れた寝具の片づけから、食事の心配まで。独りで暮らしていた時も、2回も大きな怪我をして入院した時も、コンビニの駐車場で派手に転び頭を打った時も、何とか乗り切ったから1人でも何とかなると思っていた。多分何とかなったに違いないが、家族がいてくれるのはやはり温かいと実感した。
ようやく食事が作れるようになった夜、宗像クンにそのことを話すと「心配したよ。…………。」言葉の終わりに妙な間があり「でもね…」という心の呟きが聞こえたような気がした。「ン?何?」と聞き返した私に、小さな声だが宗像クンはハッキリとこう言った!
「弱っている時の方がいいカモ」
あんなに苦労して作成し、6月に提出した起業支援金の申請書。そろそろ回答があるかなと思っていた頃、結果が郵送されてきた。結果は「不採択」。理由は「事業の収益性が採択基準に達しなかったため」「実施体制、スケジュールの計画性について採択基準に達しなかったため」とある。
ガーン!!余りのことに声が出ない。4月からコツコツと書き始め、苦手な利益計算をしたり、工事が必要な調理設備の見積もりを取ったり、購入しなければならない調理器具のカタログを調べたりと周到に準備を進めてきた。さらに、6月の移住日記にも書いたが、この支援金制度をサポートする熱心なスタッフと巡り合い、貴重なアドバイスを頂くことができたので、かなり緻密な仕上がりになっていたと自負していたのだ。「次は面接ですよ、日程が決まったら予行練習をしましょう。ビシビシやりますよ、覚悟してて下さい!」という励ましに、もうすっかり審査に通った気になっていた。体調が最悪だったこともあり、私は茫然自失としてしまった。
通知を受け取って10日が過ぎた。正直、気持ちはまだ回復していない。しかし、前に進まなければならないのも事実だ。そのために移住して来たのだから。まだまだ努力が足りないのだ。知恵を絞り切っていないのだ。
「考え得る限りの道筋と手立てを熟考して準備をしなさい。それで万一失敗したらば、その失敗に屈すべからず。失敗を償うだけの工夫をまた凝らせばよい。最もいかんのは、討ち死に覚悟の籠城みたいな真似をすること。自棄なる言動は小人の仕業、厳に戒めるべし」【朝井まかて著:朝星夜星より】
HBBを取り巻く自然が大好きだ。家の前に広がる小高い丘には緑が生い茂り、紫陽花が咲き誇っている。毎朝雨戸を開けた瞬間にこの景色が目に飛び込む。まるで自分の庭のように独り占めできる贅沢だ。
幸い移住生活は今のところ楽しいことが多いが、時に気が塞ぐことや先々の不安に押し潰されそうになることもある。宗像クンとぶつかる時もある。そんな時は東ヶ丘公園の原生林を歩く。目が捉える樹、草、花、土、光、空、水。耳が捉える風、揺らぎ、鳥。肌が捉える空気。それらの中で五感が研ぎ澄まされていくのが分かる。今まで何度これらのものに癒され、励まされ、勇気を貰ったか数え切れない。この場所に出会えたことは私の人生の奇跡だとさえ思える。
いつも一人で散策することが多いが、今日は珍しく宗像クンと一緒に歩いた。日中あまりにも暑かったので日が落ちそうになる寸前の山歩きだった。薄暗くなった林道に足を踏み入れた途端、この時間限定の見事な音風景が広がっていた。私は思わず立ちすくみ、全身でそれを味わった。自然が生み出す音楽の魅力は言葉で表現できない。当てはまるとすれば…………[神々しさ]。
牛来サウンドスケープを音を大きくしてお聞きください。
昨日、野馬追祭が終わった。
昨年は観光客として壮大なお祭りを楽しみ、友人たちに「凄いよ!絶対見るべき。来年はこれを見に来て!ウチで休んで貰えるし、他にも案内できるから!!」と写真や動画を付けて宣伝しまくった。
その成果があり、東京と埼玉から宗像クンの仕事仲間だった方が、郡山から私の兄一家が来てくれた。総勢11人。賑やかで楽しかった。私は張り切ってご飯づくりをした。小2の子どもから70代まで年齢層も様々な11人の胃袋を満たすよう奮闘していると、自分が寮母さんになったように思えた。「美味しい!」の言葉が励みになって、次の食事ではもっと喜んで貰おうと頑張る健気な私であった。
宗像クンは5時前に起きてキャンプ用の椅子やら、お尻に敷く段ボールやら、凍った飲み物を升席に運び、祭場の駐車場をゲットするためロープを張るなど、それはそれは一生懸命に動いた。
私達はこの日のためにミーティングを重ね、分単位で日程を組んだ。そこにはお客様の動き、移動に使う車の数と駐車場の確保と共に、私達2人の分担を書き込んだ。さながら旅行会社である。私はそこに、献立を書き、買い物の予定を入れた。教師時代に修学旅行の計画を立てたり、吹奏楽コンクールの移動プランを立てたりした経験が役立ち、大したことではないとタカをくくっていたが、やはり学校とは違った!!第一、学校はこんな暑さの中、炎天下で騎馬武者の行列を観たりしない。
無事に3日間が終わりお客様を送り出し、心からホッとした。でも、昨年のように写真や動画をあちこちの知り合いに送ってはいない。手元にお客様をお迎えするマニュアルと献立表が残っているから、来年はよりスムーズにできると思うけれど、賑やかで楽しかったけれど、私は「来年こそ観に来て!」と言えなかった。
お客様も馬も騎馬武者も気の毒になる程の異常な暑さがその理由である。今年は落馬が多く、人も馬も熱中症で倒れたと聞く。気の毒にそのうち1頭は死んでしまったらしい。散歩の途中で普通に馬を見ることができるステキな町、野馬追を直前に控えた早朝は我が家の前も馬が通る。こんな町は他にないと思う。
だからと言って、新参者の私達が「時期を変えるべき」とか「伝統を守ってこその行事」とか軽く言えない。野馬追について、住んでみて初めて見たこと、聞いたこと、知ったことも多く、評論家ではないのだから簡単に言葉にしてはいけないと思っている。
間違いなく言えることは、「野馬追は素敵なお祭り、それを踏襲している南相馬市は素敵な町!!」
来年から8月5日はHBBの記念日だ。今年、ここでお披露目のコンサートを開くことが出来たからだ。コンサートをやることは移住するずっと前から決めていた。できれば春にやりたかった。さらに、コンサートに合わせて、子ども達とのワークショップもやりたかった。
移住してから8か月…。カフェをオープンするための準備は少しずつ進んでいる。宗像クンのパソコン相談や教室にもほんの少しずつだがお声が掛かっている。私のワークショップは南相馬市の出前講座で7月にお呼びがあった。この歩みは決して順調とは言えないけれど、移住してみなければ分からないことが多かったから当たり前だ。計算通りに物事は進まないし、焦っても仕方がない。だからと言って時が満つるのを待っていていいのか?コンサートは8月に決行しよう!と5月に決めたのだった。
結果、それは正解だった。大正解だった。その理由は、外でしかお話しなかったご近所の方々に家の中に入って頂けたこと、家を仲介して下さったターさんご夫婦や、子ども食堂の関係で知り合った仲間にHBBでやりたいことを見て頂けたことに大きな意味があるからだ。さらに埼玉から6人の元同僚だった仲間も駆け付けてくれた。平田村の同級生も見に来てくれた。
HBBの小さな家に集まった総勢25人は、夕暮れのを窓越しに見ながら、東京から来てくれた打楽器奏者の永田砂知子さんが奏でる波紋音の響きを聴いた。見たことのないHAMONという楽器、高い演奏技術、滅多に聴くことのできない即興演奏、これらが不思議な音の空間をつくり、それを25人が共有することに意味があったと思う。
HBBは間違いなくスタートした。改めてそう思った。
野馬追が終わり、1週間後のコンサートも終わった。怒涛のような日々に一区切り。HBBに滞在した永田さんを浪江駅までお送りした後、私は安心したせいで放心状態だった。
コンサートの詳細は、とりあえず永田さんがお書きになったFacebookを使わせて貰うことにし、私はじっくりと思い出しては日記に書きたいと思う。
野馬追とコンサート、2つの大きなイベントを終え8月6日からはホッと一息………のはずがもっと忙しくなった。前回書類審査ではねられた県12市町村起業支援金交付に再チャレンジすることになったからだ。事業計画書を大幅に修正し、写真やグラフの量を増やし、何回も確認して速達で送ったのは9日、締め切り日前日の夕方だった。市街地ではない立地の不便さを逆手にとり「緑豊かな隠れ家的カフェ」と強調し、目の前で採れた山菜、生息する鳥や動物、咲き誇る季節の花々はもちろん提供する料理の写真や利益率のグラフを数多く盛り込んだ。宗像クンも力を貸してくれ、数日間は食事もそこそこに頑張ったので、自分で言うのも何だがいいモノができたと思う。これ以上改善の余地はないと信じていたので、もし通らなかったとしても3回目のチャレンジはしない!と決めた。提出した夜は2人で乾杯し、久しぶりにぐっすり寝た。
そして1週間後、2次審査の案内が来た!嬉しかった。審査に通る嬉しさは己の受験合格や採用試験合格の時の感情に似ており、数十年ぶりに味わったような気がする。2次審査はzoomによる6分間のプレゼンとそれに対する質疑応答だと分かった。前回から支援してくれているコンサルの2人に連絡し、早速2次審査の準備に入ることになった。
これからが大変だ!いや本当に大変なのはプレゼンではなく、開業してからなんだけれどね。
「青葉寿司」は震災前まで小高で営業していた大きなお寿司屋さん。6号線を「ダイユーエイト」で曲がり小高市街に通じる陸橋から見える「青葉寿司」の大きな字。この店は小高のランドマーク的な存在だったと聞く。震災後は店を閉じていたが、その建物をDIYし冷凍パンを販売するカフェ「アオスバシ」として7月に生まれ変わった。
「スタッフが足りないのでやってみれば?この後何かの役に立つんじゃない」と知人に勧められ、経営者の森山さんとお会いしたのが7月末。「こんな歳で大丈夫ですか?」と一番心配なことを伝えると「お店に来た年配の方が安心するかも知れません。私も働きたい!と思うかも。」なんて優しい言葉を言ってくれて安心し、8月中旬から週1回、時給1,000円で働いている。これまで飲食店の経験は多い方だと思う。兄が郡山市で喫茶店(古い!)を始め、その後レストランに拡大するたびに大学生だった私は便利に駆り出されていたのだ。一通りのことは出来る自信があった。しかしそれから50年も経っていることに気付かなかった私、これが既に老化現象らしい。初日の僅か数分で耄碌した自信が崩れた。
まず老眼だ。パンの値段もレジの数字も読むのに一苦労。目を細めている私を正面から見ているお客様は何と思っただろうか?「気の毒だな、このオバサン。慣れない仕事で。何か働かなければならない事情があるに違いない。」又は「この店みんな若いスタッフばかりなのに…。シルバー人材から派遣されたのかな?どうでもいいけれど、もう少し速くレジ打ちしてよ!!」そんな風に思われているに違いない。どうしよう!私。時給1,000円なんて貰う資格がないのでは…。
更に記憶力の低下が酷すぎる。飲み物はアイスかホットか、テイクアウトかイートインかを何回も確認しないと自信がない。ましてメニューの値段やパンの名前など覚えきれない。それ以上にAirレジの仕組みについていけない。昔は一日やると覚えられたものが、今はこの先1か月働いたとしても覚えられる気がしない。これじゃ足を引っ張るだけでスタッフに申し訳ない。勉強のためになんておこがましい、恥ずかし過ぎる!どうする?どうする?どうする?来週もやるのか?
老いは確実に私を蝕んでいる。もうすぐ67歳になるのに、この先自分のカフェを本当に開けるのか?不安が襲いその夜は眠れなかった。
なぜウクレレを始めることになったのか思い出そうとしているが全く思い出せない。ウクレレ2台はメルカリで買った。野馬追の時に来てくれた友人が弾いたのも覚えている。なのに入部のきっかけが記憶から消えている。まあいいサ。今はウクレレを弾きながら歌うのがとても楽しい。きっかけなんてどうでもいいサ。
南相馬ウクレレ部とは震災後立ち上げられたサークルで、他県の団体からウクレレを寄贈されたことがきっかけらしい。月に2回、10人前後でゆる~く活動おり時々イベントにも参加している。最初の2回は夫婦で仮入部し「バラが咲いた」や「夢の中で」を練習していたが、その後宗像クンは「今日はボク欠席する」というのが続いた。学校の部活動のように先生に呼び出されて「どうすんだ?」なんてことはなく気楽でいい。そのうち新しい曲を始めることになった。NHK朝ドラ「らんまん」のテーマ曲「愛の花」だ。私は、あいみょんが好きだが、主人公のモデル牧野博士を心から敬愛し、高知にある牧野植物園にも2回行ったことがある。嬉々として練習していたので多少は上達する。部活に行きみんなと歌う、楽しい、帰ってからまた練習する、多少は上達する、を繰り返していたある日、宗像クンがウクレレを買うという。「貸してあげるよ。(どうせ飽きるのだから勿体ないでしょ:由美子心のつぶやき)」と言うと「自分のが欲しいの」とキッパリのたまい、早速メルカリで購入した。(7,000円)
こうして2人で部活に通い、9月には「小高やどりぎ。」でのライブに出演することになって今練習している。後日宗像クンに「部活を再開しようと思ったのは何故?」と聞いたら「だって由美ちゃん楽しそうだからサ。」おお!私こそ音楽教師の鑑ではないか。音楽を楽しむ教師(元)の姿を見て一人の生徒(?)が意欲を取り戻したのだ。因みに私のウクレレはメルカリ価格6,000円、宗像クンより1,000安いのが少し気に入らない。
おだか秋まつりストリートライブトップバッターの南相馬ウクレレ部のメンバー
京都市立芸大で作曲を教えている友人のかづちゃん(岡田加津子さん)からメールが来た。内容はこんなカンジ。
【モッチー(私のこと)久しぶり。9月の一週目休みが取れたので5泊6日の一人旅に出る予定。モッチーの移住先を旅行の候補先にしても良い?。旅の目的はモッチーに会う事と震災で甚大な被害を受けた被災地を自分の目で確かめたいの。しかし東北は京都に住む人間にはとても遠い未知の地、各県の位置関係もよく分からない私。行くことになったらプランの立案を手助けしてほしいのよ。】
かづちゃんが東北を巡る?しかも6日間も…。北海道や秋田にも充分行ける日数なのに随分思い切ったものだと訝りつつ取り敢えず返信。《いいけど暑いよ。それに小さい町だから何もない。それに私は独身じゃないから以前のように自由はきかないかもよ。それでもいい?原町に来るには仙台まで飛行機で、そこから常磐線で南下するのが最短。常磐線は本数が少ないので仙台まで迎えに行くことも可能。諸事情により原町での宿泊は我が家ではなくホテルにお願いしたい。6日間の大まかな希望を知らせてくれたらプランを考えてみるよ。》
その日のうちに返信がくる。【ありがとうモッチー。飛行機で仙台へ行き常磐線で原町に行く。乗り継ぎもスムーズみたいなのでお迎えは不要。原町には3泊、ホテルを紹介してね。そのあと気仙沼や三陸方面に足を延ばし、仙台まで南下し飛行機で帰るわ。】
ナヌ!原町に3泊もするだと!!この小さな町に3泊もするのか?京都からはるばる来てくれるのは嬉しいけれど、何せ暑いし、観光と言っても野馬追は終わってしまった。洒落た店もないし…飽きないか?あれこれ考えた末、駅前のホテルを予約したうえで、6日間のプランをザックリ立てた「岡田加津子様被災地巡礼の旅プラン:モッチーツーリスト提案」なるものを作り、以前浪江請戸小震災遺構で貰った「3.11伝承ロードマップ」と共に彼女に送った。
2週間後の9月4日、13時39分着の電車でかづちゃんは本当に来た。原ノ町駅の改札機に「Suica」ではなく「ICOCA」を読ませ、スマートでスタイリッシュな装いで颯爽と。そこからはオーラが出まくり明らかに原ノ町駅の光景から浮いていた。私はそれが誇らしく人前もはばからずかづちゃんを抱きしめた。「遠方をようこそ!」
2次審査は9月8日と決まった。自己紹介、起業の概要、利益目標などを盛り込んだ6分間のプレゼンをし、その後質疑応答の時間。既に提出した24頁にもわたる事業計画書を6分にまとめなければならない。コンサルを請け負って下さっている2人のメンズも「プレゼンがとにかく大変だと聞いています。オーバーすると失格ですよ。うまくまとめて下さいね。そして私達と何回も練習しましょうね。質疑応答も私達が審査員となって厳しくやりますよ!」と張り切っている。
そして8月末に進捗状況を確認するため集まった。コンサルのメンズは「まとまったプレゼンはまだ先でいいです。取り敢えずどんな形になるかくらいが分かれば…」と言っていたが、実はこの時プレゼンの資料を9割がた完成させていた。だって超真面目に黙々と毎日作業したんだもん。まず私がプレゼンの全体構成を作り、その後2人で編集会議を開き、全体の流れ、見出しのタイトル、取り込んでほしい写真やグラフについて確認し合った。プレゼンがスムーズに進むために、宗像クンは得意のパワーポイントで作ることになり、私は読み原稿の作成に入った。とにかく真面目だった。真面目に取り組んでいるとアイディアが次々と沸いて来る。それを2人で話し合い修正すると更に良くなり分かり易くなっていくのが実感できた。
だから、打ち合わせでパワーポイントを使い6分に納まった原稿を読み終えた時、コンサルメンズから拍手を貰った。「いやぁ、こんなに出来ていたなんて、驚きました。」「よくまとめましたね、分かり易かったですよ。」「旦那さんはさすがですね。」など賞賛された。幾つになっても真面目に頑張って褒められると嬉しいものである。何よりも2人の得意分野を出し切れたことが1番だ!気をよくした私達は、本番までの1週間でさらに画面を工夫したり読み方を練習した。コンサルメンズとは本番さながらzoomでプレゼンし質問も受けた。指摘されたいくつかを修正し、質問に対する答えの裏を取るなど万全の備えをして9月8日の本番を迎えた。落ち着いて迎えることができた。真面目は大事だ。真面目にやると実に爽快だ。
1週間後「内定」の知らせが届いた。ヤッター!!!
友人のかづちゃんは9月4日から原町に3泊、その後石巻から気仙沼と松島にそれぞれ1泊して仙台空港から京都に帰って行った。貴重な一人旅6日間のうち4日も原町に滞在したことになる。長すぎて飽きるんじゃないか?と最初は不安だったが、原町にはかづちゃんの好きな海がある。わがHBBの周りは散策コースに恵まれている。それに、かづちゃんの希望である震災の爪痕を巡るという大きな目的もある。それらを考慮して我がモッチーツーリストが作成した旅程プランを実現する時が来た!!!
のはずだったが、かづちゃんは雨を連れてきた。それまでカラカラの毎日だったのに、彼女が伊丹発の飛行機に乗ったあたりから原町は雲が厚くなり、そのうち雷鳴がとどろき始め、嗚呼!原ノ町駅に降りた時は土砂降りの雨だった。そして雨は3日間降り続いた。北泉海岸は高い波しぶきがで冷たく5分で退散、風光明媚な松川浦大橋からは強い雨のため何も見えず、楽しみにしていた海鮮料理の店は臨時休業だった。どこまでも不運がつきまとう私達。翌日は、浪江請戸小の遺構を見た後、原発で町が変わってしまった双葉~富岡まで足を延ばしたものの、車を止めざるを得ないほどの激しい降りに遭遇し這う這うの体で帰ってきた。
一番残念だったのはHBBの周りの散策が出来なかったこと。HBBを取り巻く素敵な環境を見てもらい、私の新しい生活を気にかけはるばる来てくれた友を安心させたかったのに・・。
追い討ちをかけるようにプランを邪魔する事情もできてしまった。補助金2次審査のための打ち合わせと練習が急遽入ってしまったのだ。その時間をかづちゃんは朝日座を見学したり、図書館で読書をしたりして過ごしてくれた。一人旅にはそういう時間もあった方がいいと、都合の良い解釈をして私は自分を納得させた。
そして雨があがったのはかづちゃんが原町を離れる日だった。石巻の大川小と門脇小の震災遺構を案内し、昼過ぎに石巻駅で別れた。来た時と同じく熱いハグをして。
私とかづちゃんは埼玉や京都で会うたびに2人が目指す音楽と教育について語り合ってきた。年に1回位、お酒を呑み美味しいものを食べながら、その時夢中になっていることを報告し合った。20年以上そうやって付き合ってきた大切な友かづちゃん。この度は本当にありがとう。又来てね。今度来るときは雨を連れて来ないでね。
初日から出来ない事ばかりで「どうしよう!」と悩んだ小高アオスバシでのアルバイト、老眼も記憶力の退化も相変わらずだが、オーナーの森山さんと若いスタッフに助けられて何とか続いている。ある日森山さんから「スープ出したいと思うのですが、作ってもらえませんか?」との提案があった。自分の作ったものが商品になる嬉しさはあったが、不安もあって家で考えてみた。そして気付いた。私が和洋のスープをどれだけ愛してきたかを。
きっかけは一人暮らしを始めた大学生時代に遡る。お金がなく、いつも空腹だった時汁物はおかず無用で経済的、淋しい独り暮らしの心と体に染み渡った。アルバイトを始めてお給料を貰えるようになり、喫茶店やビストロのメニューにポタージュを見つけると必ず注文した。教師になって就職すると毎日帰宅が遅くなり、休日に作り置きした汁物やスープは何と有難かったか。それがあるだけで心が軽くなった。作り置きが用意できない時はコンビニのレトルト豚汁にお世話になったものだ。
そして20代の終わりだったと思うが、書店の料理本コーナーで辰巳芳子著の「あなたのために~いのちを支えるスープ~」という本を見つけた。美しいスープの写真に惹かれて買ったが読んでみたら気難しかった。誰でも簡単に出来るレシピ本ではなく、食べ物への尊厳が溢れた教科書のようだった。この本との出会いにより、私はスープがもっと好きになった。
教師の仕事はとても好きだったけれど、時々「もし辞めることになったら好きな料理を活かした仕事がいいな」なんて妄想し、そこで作っているものは何故かスープだった。40代、大きな手術で2ヵ月入院した時は、ベッドの上でスープのレシピとお店のメニューをノートに書いて時間を過ごした。味噌汁や豚汁やけんちん汁なども供し、おにぎりとパンを出すお店を頭の中で想像していたのを思い出す。
60代も半分を過ぎた今、カフェオープンが現実になり、料理の興味はスパイスカレーやおばんざい風の和食に移らざるを得なくなったのでスープの存在は小さくなっていたが、アオスバシで10月からメニューに加えることが提案された。不思議な感動で私の心は一杯である。想い続けてきたことがこんな形で実現するとは・・・。頑張って丁寧に作ろうと決心した。
10月から小高「アオスバシ」では土曜限定で「かぼちゃのポタージュ」と「ミネストローネ」が登場します!
カフェオープンが現実のものとして動き出した。週5日のうち4日はスパイスカレーのランチを、残り1日は皿数の多い和食中心のおばんざいを提供すると決めた。
10年ほど前「牛すじの和風カレー」を作ったのがきっかけでスパイスカレーが好きになった。「牛すじ煮込み」にヒントを得て牛蒡、大根、蓮根などをカレーにしたらどうかと考えた時、市販のルーを使うよりスパイスが合うかもと閃いたのだ。早速レシピ本を買い、クミン、ターメリック、コリアンダー、カイエンペッパーなど基本のスパイスを使ってみたら上手くいった。さらにカルダモンやクローブも揃え、隠し味のしょうゆや味噌とも相性が良いと分かったら一気にレパートリーが拡がった。それからというもの友人に振る舞っては「スパイスは面白い。思ったより使いやすいのよ!」「日本人の口にも合うのよ!」と調子に乗っていた。
しかし仲間内で満足していても今後は通用しない。そこでイベントなど人の集まるところに出向き、試食を提供することにした。9月は「小高やどり木・ライブコンサート」で茄子と挽肉のカレー60人分を無料で振る舞った。10月は原町の農家民宿「いちばん星・ジャズコンサート」。ここでは30人の方に茄子と挽肉のカレーとタイ風イエローカレーの2種をワンコインで試食して貰った。材料の量を決めること、安く仕入れるために農家と交渉すること、調理の段取りを考えること、食器を補充することなど大変だったけれどクリアーできたと思う。もちろん課題は残ったけれどそれらは今後の肥やしになることばかりだった。
来月18日は、移住のきっかけになった浪江畠山さんのhana cafeを借りてワンコイン試食をすることが決まっている。タイ風イエローカレーと豚バラのスープカレーを考えている。hana cafeはリピーターの多い人気のカフェだ。そこでどんな反応があるのか、緊張するけれど楽しみでもある。今日は宗像クンがチラシを作ってくれたのでhana cafeに届け、インスタにアップした。
今までの人生で今年は一番多く夏野菜を食べた。しかも飛びぬけて美味しかった。嬉しいことに安かった(頂くことも多かった)。
茄子、胡瓜、モロヘイヤ、枝豆、トマト、トウモロコシ、オクラ、万願寺、ピーマン、茗荷、大葉、カボチャ、隠元、ズッキーニ、花ニラ。とにかく新鮮で美味しいから毎日食べても飽きなかった。以下は覚え書き。
①茄子を薄くピーラーで引いて濃い塩水につけ、オリーブオイルをかけ生で食べる。茄子の偉大さに改めて脱帽。②胡瓜をまるごと塩でこすり大葉と豚肉で巻いて焼く新しい食べ方、味付けは塩コショウのみ、胡瓜を生でしか食べないなんて勿体ない。③枝豆は固く茹でて実を取り出す、トウモロコシは大胆にこそげ落とす、、茗荷は丸ごと、これらを3種類の天ぷらにして塩、熱々をビールと共に、大切なのは3種類の味のコントラスト。④茄子と万願寺の味噌炒めには青唐辛子を細かく刻んで加え爽やかな辛さに驚きながら食べるべし、ただし唐辛子の種を取り除く時はマスク、手袋、ゴーグルを装着することをお奨めする。⑤マヨネーズを使わない大人のポテトサラダ、茗荷、大葉を長ネギを「えっ!こんなに!」と言うほど刻み塩で揉む、荒く潰したジャガイモと混ぜ、多めのワサビ、酢、砂糖、オリーブオイルのドレッシングで和える、オヒョー!ビックリ!⑥カボチャは買わなくて済むはず、絶対誰かがくれる、しかも丸ごと、それを持て余していたら田舎暮らしはできない、ただし台所に転がっているカボチャはストレスが溜まるので。カットして冷凍する、それでも夏の終わりには転がるのでに煮て配るのが一番!ホクホク仕上げるコツは厚手の鍋と最小の水。
涼しくなったと同時に店に並ぶ夏野菜がガクッと減り、値段が高くなり始めた。淋しいけれど、残念だけれど季節の移り変わりに素直に従うことにした。その分来年が楽しみだ。原町の野菜最高!
私のスパイスカレーは「鎌倉OXYMORON・オクシモロン」をベースに作っている。どのレシピも野菜たっぷり、日本人の口に合うよう仕掛けてある。経営者の村上愛子さんが書いた美しいレシピ本には油や水分でヨレヨレの上、スパイスの色と香りまでが付いている。勿論小町通にあるお店に何回も食べに行った。
しかし移住した今、頻繁に行ける距離ではなくなった。目と舌で確認したい課題が山積みだ。起業支援が正式に決まったら行こうと決めていたがついにその日が来た。いざ鎌倉!古巣大宮に宿をとり、友人と会ったり、合羽橋を下見したりと溜まった用事を片付けながら4泊5日の自費出張だ。
鎌倉OXYMORONを訪れたのは滞在2日目、お店のオープンは11時だが鎌倉に着いたのは9時少し過ぎ。大好きな鎌倉市農協連即売所が目当。ここには朝獲りの野菜が沢山並んでいるが、特に心が躍るのは野菜の色の鮮やかさ!この日は大根に目が釘付け!。白、赤、緑はもちろん黒まである。赤といっても真っ赤、薄い赤など様々、しかも表面だけが赤いのもあれば中まで赤いものだったり、太さや長さも個性的なのだ。帰るのは3日も後なのに我慢できない。大根を3種5本、背の高いルッコラを3束、花束のような大きな株のシコレ、重い冬瓜を買ってしまった!!隣の乾物屋さんで段ボールを貰い宅配便で送ることにしてOXYMORONに向かう。時間もピッタリ。
OXMORONでは、この日のメニューにあった4種全てオーダーした。もちろん事情を話しライスは一人前にして貰った。「エビとトマトのエスニックカレー」「和風キーマカレー」「エスニックそぼろカレー」「スリランカ風マトンのカレー」。どれもそれぞれの具材とスパイスが際立ち、メニューの組み立てが流石だが、マトンのカレーが特に秀逸であった。マトンの乳臭さが心地よく感じられるスパイス使い、昆布や醤油を使った和風の味付けがカレーを奥行きのあるものにしている。私は4種のカレーの写真を撮り、メモを取りながらゆっくり味わい3時間かけて食べ終えた。
お店のスタッフにお礼を述べ芳醇な気持ちで帰途に着いた。奇をてらわず、素材を生かし、丁寧に作った料理はどんな人にも受け入れてもらえるはず。カフェオープンが近づくにつれ不安で気持ちが揺れていた私をリセットしてくれた。
3か月ぶりに移住日記を書いている。このところずっと文字を書くことも読むこともしていないと気付く。新聞すらじっくり読めていない。3か月も一体何をしていたのだろう・・。
年末・年始はコンサートの練習とワークショップの準備に追われ、1月はコンサート一一色、2月は繋がり補助金の成果報告書を提出した後、カレーの試作に集中、3月は・・・・思い出せないほど慌ただしかった。仙台にティータイムに使う食材を見に行き、合羽橋に足りない食器を買いに行き、那珂湊に乾物とトロサバ味醂干しを買いに行きと遠出が続いた。これらは全部カフェ用のものである。重ねて駐車場と庭回りの整備も始まり、発注した炊飯器、暖簾、コーヒーメーカー、グラス、スパイスモノが毎日のようにAmazon便で届いた。その度に梱包を解き、収納する。カフェの動線を考えながら、不要なモノを捨てながら。
そうだ!大熊インキュベーションに出店もした!!牛すじ煮込み50食と白菜のスープ30食を作った。その準備の最中に12市町村起業支援金の現地確認もあった。忙しかった。疲れた。
明後日から2日間はご近所の方々を食事に招待する。新参者の私達を温かく迎えてくれ、漬物や山菜を届けてくれ、スギナ退治に手を貸してくれた親切な方々だ。心を込めておもてなししよう。
そして翌週は3日間のプレオープン、お世話になった方々に声を掛けてある。
グランドオープンは4月2日。いよいよだ!
実は私は移住日記を書くことに憧れていた。
それは10年以上も前、宮下奈津著「神様たちの遊ぶ庭」を読んだことに始まる。福井県から北海道大雪山国立公園の中にある小さな村に山村留学した家族5人の1年間を綴ったものだ。私は子ども達との日常会話の描写が特に好きで、飽きることなく繰り返し読んだ。
その頃私は大腿骨を折って2ヵ月の入院生活を送っていた。一日2回のリハビリと読書とちょっとした書き物が入院中の日課、最初は退屈に感じられたが慣れるにしたがって快適になっていった。普段読めない長編小説もバリバリ読んでいたが、疲れると「神様たちの遊ぶ庭」を読んで気分転換をしていたものだった。だから、この本はいつも枕元にある最も大切な本だった。「いつか私もこの本のように日常をさりげない文章で書きたい」そんな憧れがずっと心に住み続けていた。
南相馬に越して数か月後に、宗像クンがHBBのホームページをつくると宣言した時、寝かせてあった執筆の思いが目を覚まし、私は「移住日記を書きたい!」とお願いした。何せ書く時間はたっぷりある。これまでの人生の中で経験したことのない「締め切りに追われない書き物」だ。
宗像クンや友人から「長すぎる!赤裸々すぎる」等と非難されるも平気で書き続けた。
書くことで移住した自分の決心を確認したかった。移住が実現するまでの年月を愛しみたかった。そして何より15年以上音信不通になっている一人息子に読んでほしかった。私がどこで何をしているかを知らせる手段はこれしかなかったから。
最初の半年こそマメに書いていたが、カフェの準備が本格的に始まってからは余裕がなくなり後回しになっていった。そして昨年9月頃「いつ終わりにしようか」と考えるようになった。宗像クンが「カフェのオープンまでにすれば?」「そうだね、それがいい」と私。
今それが近づいている。何を書こうか…。少しウキウキしている自分がいる。
3日間のプレオープンが終わった
曲がりなりにも私は飲食店の経営者になった。そう自覚するための3日間だった。
来店されたお客様は3日間で14人。行列ができることを予測し福島市から手伝いに駆け付けた宗像クンの姉上が、あまりのヒマさを不憫に思い、賄いランチとドリンクのお金を払ってくれた。他のお客様もアオスバシの仲間が殆どだったから、3日間は縁故で成り立ったことになる。
しかし、学んだものは大きかった。特に段取りを考えるのが飲食業の要だと知った。食材の仕入れや、業者への発注も段取りのうち、お肉の冷凍と解凍の手順も大切だ。今日、これらをカレンダーに細かく書き込みんだところでようやく安心した。
このように、寝ても覚めても考えていたせいか脳がとても疲れ、プレオープンが終わった日はグッタリして夕ご飯も食べず寝てしまった。30年くらい久しぶりのことのような気がする。
グランドオープンまであと2日…。
皆さまからお祝いをいただきました
ありがとうございます
4月2日のグランドオープンから昨日まで3日間営業し今日は休み。
オープン初日こそお客様は片手で数えられるほどだったが、その後の2日間は8人掛けの大きなテーブルが一時満席になるほど賑わった。私は1日の目標を20人と設定していたが、そこにあと一人と迫ったことにビックリした。嬉しいのは勿論だが忙しかった。宗像クンは目が泳いでしまい、炊飯器の操作を誤ってしまった。そのことでお客様を待たせることになったが、正直に事情を告げ謝罪すると、寛容なご夫婦は理解して下さり待って下さった。その方はアオスバシのお客様でもあった通称「あいみょん」ご夫妻と1歳前後の愛らしいお子様。お子様はむずがることもなく3人の時間を楽しんで下さり感謝しかない。
木曜の「おばんざい」ランチは品数が多いため洗い物が回らず苦戦したが、何とか乗り切ることができた。何よりも嬉しかったのは、食が細いのか年配のご婦人が残された以外は全て完食だったことである。食べる人の顔が見えるのは何と遣り甲斐があることだろう。
そして迎えた休日の今日。仕事をしていて迎える休日はいいものだ。一昨年退職して以来のこの感覚が妙に懐かしく開放感がたまらない。
丁度桜も咲き始めたので、富岡町の「夜の森公園」に出かけた。
富岡までの道中、私は花と樹木と空の美しさに改めて見惚れた。風の音と鳥の声に心を奪われた。その一方で浪江、双葉、大熊、富岡の朽ち果てていく建物を目そらさずに見た。被災地にずっと住もうと決心したからには、真の復興とは何を指すのか考え続けるのが義務だと思っている。
私がこの地に住もうと決めた理由は、決して被災地だからではない。大空を飛んでいた鳥がたまたまフワリと舞い降りたような感覚に近い。
それなのに、この地は芳醇な魅力で溢れ、住むほどに好きになっている。
富岡では桜のアーチの下ソーランを踊る団体を見ながら「どこに住んでも何をしても私は私、私らしく生きていこう」と改めて思った。そして思い出した。アオスバシの若きオーナー森山さんが移住希望の若者に「こっちに来て何をするのがいいですか?」と問われた時の答えだ。
「どこがいいとか、何をするのがいいとかボクには分かりません。一番必要なのは【自分はどう生きたいか】ではないでしょうか。」
そうだ!私は私らしく生きたいのだ。では「私らしさ」とは何だろう?それに当てはまる明確で具体的なコトをこの大好きな地で沢山見つけて自分のモノにしていこう。
自分を「千葉から移住しました」と自己紹介するのももう止めにする。移住者ではなくれっきとした住人なのだから。
久しぶりの休日は暖かくゆっくりと過ぎていった。
初めてのSaturday Special Lunch のお客様にお出ししました
オープンから2週目が過ぎた。
この週もほどほどに忙しく、2人だけで回している私達にはとてもよいペースだったと思う。洗い物が多い木曜日は宗像クンの姉上様「よっちゃん」が腕まくりをして福島市から駆け付けて下さった。しかもこれから暫くの間来てくれるという。「私にとっても楽しいのよ。気にしないで!!」何と有難いことか!いつか温泉に招待しなければ!!
昨日の土曜日のランチはいわきから予約のお客様2人をお迎えした。お酒を召し上がらないとのこと、品数とれぞれの量をどの程度にすればよいのか迷ったが、やはり多かったらしい。長い時間をかけてお喋りを楽しみながら残さず召し上がって下さったが、お帰りの時「少し多いです」と正直に仰って下さった。量も料理のうち、反省だ。
移住する前の3年間と移住してからの1年4か月間、力をくれたのはいつも人との出会いだった。
この地に来ることを決心した時、この家に住むと決めた時、この家で何が出来るのかを模索した時、コンサートとワークショップ実現のために奔走した時、ここでカフェを開くと決め準備を始めた時、カフェをオープンした時。いつも誰かが支えてくれ、励ましてくれ、笑ってくれた。
勿論それはこの地で出会った人々だけを意味しない。旧知の友人や同僚、家族が含まれているのは当然だ。そうした知り合いが何人遠路はるばるこの地を訪れてくれたか、数え切れない。
そして何と言ってもこの地だ。ここの自然がどれだけ私の心を平和で豊かにしてくれたことか。私と宗像クンはこの地でようやく自分たちの基地をスタートさせることができた。これからも2人でゆっくり歩いていこうと思う。
そして、この移住日記はひとまず終えることにする。
ひとまずの理由は、書かなくてはならないⅣ章「さよなら愛する中学生」を未だに書いていないからである。気にしてる人は誰もいないに違いないが、私は書かねば!と今でも思っている(しかも相当強く)。思い入れが強いために余計書けない。これを書くには時間もエネルギーも要すると推測されるので、カフェの運営が落ち着き、長期休みが取れた時どこかに籠って書きたい。教師時代の望月由美子と関りがあった元生徒の皆さんや同僚だった方々がこのHPを読んで、「オッ!あのこと書くのかな?アイツのこと書くに違いない。」なんて期待していたらごめんなさい。それは暫く後になると思います。
「移住日記」を読んで下さり有難うございました。
これからは「奮闘記」のようなものを書いてみたいと思案しているところです。大昔の「細腕繁盛記」というTV番組のタイトルを頂こうかと考え宗像クンに相談しましたら「あなた細腕じゃないでしょ!」と言われショボーン。